いつもの朝より遅く起きた孝太郎と妻佳子は手際良く身づくろいをすると、
まるで何年も繰り返しているかのように、住み始めてわずか1年足らずのマンションを出た。
「おはようございます。」管理人のおじさんがにこにこしながら「お散歩ですか?」
「はい、おはようございます。」妻の佳子は愛想よく管理人の挨拶に答えていた。
孝太郎は、満足げな表情で管理人に会釈をして笑顔を返す。
妻が周囲の人たちとの付き合いを上手にこなしていることが誇らしげに思えた。
孝太郎と佳子は、結婚と同時に孝太郎が以前から一人で住んでいたこのマンションに暮らしている。
マンションの玄関を出て少し歩くとすぐに広い道路に出る。
「ここはね、オリンピック道路っていうんだよ」孝太郎は佳子に話しかけた。
「ふぅーん、どうしてオリンピック?」
「なんでも、東京オリンピックの時に作ったんだってさ」
代々木体育館から原宿駅前を通って神宮球場に突き当たる道路である。
神宮球場のすぐ隣は東京オリンピックのメイン会場である国立競技場がある。
「もちろん、俺は東京オリンピックなんて知らないけどね」孝太郎が笑う。
孝太郎が出勤途中にお世話になるスターバックスコーヒーを通り過ぎるとトンネルがある。
「ねぇっ、このトンネルでしょっ、お化けが出るっていう」
佳子はワイドショーかなんかで見たことがあるらしく孝太郎に尋ねた。
「あぁっ、そうだよ、トンネルの上には墓があるんだ、ほら、オリンピックの時に無理やり作っただろ。」
「でも、俺はまだお化けには会ってないよ」
「そりゃーそうでしょう」佳子は本当に怖いらしく小走りにトンネルを抜けた。
「わぁーきれい、ほら孝太郎さん、桜、満開じゃない」
「おーっ、」
トンネルを出たすぐの左側にあるお寺の大きな桜の木がほぼ満開になっていた。
「あらっなにかしら」
交差点の信号を渡った左側にある明治公園に沢山の人がいるのを見て佳子が孝太郎に聞いた。
「フリーマーケット、やってんじゃないか、見るかい?」
「んーんっ、いいわ、行きましょっ」
佳子はこの散歩を中断するのがもったいなく思えたのだ。
青年館を通り過ぎようとした時に孝太郎は
「ここをほらっ、まっすぐ行くと地下鉄外苑前駅だよっ」と佳子に教えた。
「知ってる知ってる。孝太郎さんの高校って近くじゃない?」
「あぁ、すぐそこだよ」
「孝太郎さんのお父様がPTA会長で、歴史的祝辞に拍手喝采の嵐だったんでしょ」
「いいよっそんなことっ」
孝太郎は明らかに不機嫌な顔になった。そういえばそんなことを佳子に話したことがある。
孝太郎の高校卒業式にPTA会長として祝辞を述べた後に会場の生徒から盛大な拍手をうけた。
先生たちは驚き「卒業式の祝辞で拍手を受けたのを見るのは初めてです。」と感激していた。
そんなことを孝太郎は父孝二のことをかつて佳子に誇らしげに話したことを後悔していた。
「こっち、行くよっ」
神宮球場とゴルフ練習場の間を通って神宮外苑の周回道路のほうへ向かった。
佳子は、孝太郎が父の事を嫌っていることに気が付いていた。
結婚式の後一度も会っていないし、
孝太郎の実家のこととか、父孝二の話になるとすぐに不機嫌になるのだった。
「孝太郎さんもここでゴルフの練習をしたの?」
「あぁ、親父と一緒によく来て練習したけど」
佳子は、また孝太郎の父の話になり孝太郎がさらに不機嫌になりはしないかと気になった、
そんな心配をよそに、孝太郎は続けた。
「俺、練習よりもね、ゴルフパックを置いておくロッカーがあるんだけど、使い終わったら500円玉が戻ってくるんだよ、だけど、それを忘れて持っていかない人がいてさ、ラッキーって感じで、多い時は2、3個だよっ」
「えっ、それって、犯罪でしょっ」
「はいっ、まっ、時効っことで」孝太郎と佳子は周りをちょっと気にしながら小さく笑った。
「ねぇっ、その時お父様はなんて言うの?」
佳子は、そう言ってから、あっ、またお父様の話を出してしまった、と気まずく思ったが
「おーっ、それはラッキーだったな」と、孝太郎があたかも父の真似をしているように答えたのでほっとした。
周回道路には桜がほぼ満開に咲いていた。
ゴルフ練習場のエントランスを過ぎて右に回り、周回道路を少し行くと、銀杏並木が見えてくる。
その曲がり角にある桜の木の所で孝太郎は立ち止り佳子に話し始めた。
「ちょうどここの曲がり角の所に、手が届くくらいのところにいい枝が有ったんだよ。」
「だからその枝をちょっと掴んで顔の横にやれば最高の写真が撮れるんだ」
「だけど、いつか突然に切っちゃった、野暮だよなー」
佳子は微笑みながら黙って聞いていた。孝太郎も特に返事を求めるでもなく遠くを見るように話していた。
佳子には分かっていたが口には出さずにいた。
「これもきっと、お父様が話されたのね。」
噴水を背中にして銀杏並木を青山通りに向かってゆっくりと歩く。
時々ジョギングを楽しむカップルが通り過ぎる。
健康のためなのだろう、年の頃なら70は過ぎているであろう老夫婦は早歩きで散歩している。
「ねぇっ、私たちもジョギング始めましょうか?」
「えっ、いいよ。」
「なんでぇ、健康にいいじゃない、あの早歩きってのも結構汗かくらしいわよ」
佳子は、ブランド物のジョギングウェアーを身にまとい、実際にはほとんど使わないスポーツウォッチを
時々チラッと見ながらゆっくりとジョギングする自分の姿を想像していた。
「親父たちはやってたけどね。」
「・・・・・・・」
テラスのあるカフェの前で、突然佳子が声を上げた。
テレビドラマなどで頻繁に使われるカフェである。
まだ、営業前なのか、スタッフがテラスのテーブルや椅子のセッティングを忙しそうにしている。
青山通りにでると歩道をそのまま進み表参道に歩みを進めた。
「ここのお煎餅、そこそこにおいしかったんだよな」
こじんまりとしたビルの前で孝太郎はつぶやいた。
どうやら今は何をやっているか分からないこのビルはお煎餅屋さんだったのだろう。
佳子はあまり興味がないのか、何も言わずにあたりを見回しながら歩いている。
ベルコモンズを過ぎたあたりから人通りが多くなってきたようだ。
向かい側に見えるピーコックは、佳子もよく利用するスーパーだ。
「ねぇ、前はここらへんに東急ストアもあったんだって?」
「あぁそうだよ、ほらっ、ここの地下にあったんだよ」
孝太郎はそう言ってマクドナルドを指差すような仕草をした。
「ここのお粥は美味しかったわ」
糖朝と書かれたお店の前で佳子がその味を思い出しているかのように孝太郎に言う、
「ねぇ孝太郎さんは誰と来たの?どうして知ってるの?」
日頃から佳子は感じていたことを孝太郎に聞いてみた。孝太郎は素敵な店をたくさん知っていて
佳子とのデートを飽きさせたことなどはなかった。
「親父に教えてもらったんだよ、こここのビルのオーナー、親父のゴルフ友達らしいよ」
「あぁっそうなんだ」
「さぁっごはん食べよっ」孝太郎はそれが当然のことのようにパン屋さんへ向かった。
表参道の交差点をまず銀行側に渡り、少し信号待ちをして再び交差点を渡る。
アンデルセンは、孝太郎が中学生の頃から週末には決まって家族と朝食を取ったところであった。
あのころと比べるとリニューアルがなされ小奇麗になっている階段を上がっていくと
「いらっしゃいませ」と、孝太郎にとっては聞きなれた声が聞こえてきた。
「あっどうも」
「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」と店員のその男は孝太郎たちを奥の方へ案内した。
「ねっ、孝太郎さん、こういう時って窓側の方から案内するんじゃない?ほらっ、空いてるのに・・・」
「あっそうか。でも俺達はいつもここの席だったから」
孝太郎はその席に案内されたことになんの疑問も感じずにいる。
「そういうことね。」佳子も納得した様子である。
「お父様達はお元気ですか?」
「あぁ、元気じゃないですか、しばらく会ってないんですよ。」
「東京に帰られたときは是非寄られるようにと伝えてください。」
「あっ、はい、ありがとうございます。」
孝太郎はそう答えつつも、親父に会うことはしばらくはないだろうな、と心でつぶやいた。
「あっ、はい、お願いします。」
「あっ、すみません私紅茶にしてください。」
佳子はコーヒーが嫌いというわけではないのだが、紅茶を注文した。
コーヒーと紅茶が運ばれて来ると孝太郎は顔見知りのその男に
「アンデルセンモーニングを二つ、スクランブルで」と注文をした後に
「で、いいよね。」と佳子に確認を求めると、佳子は軽くうなずいた。
「かしこまりました。」と言って男が立ち去るのを待って、
それまでメニューを眺めていた佳子が孝太郎に聞く、
「ねぇっ、孝太郎さんアンデルセンモーニングなんてメニューにないわよ」
「えっ? あっそうお? まっいいじゃん、なんかくるよ」
孝太郎にとっては、とにかくパンとコーヒーが大事で、他はどうでもよかった。
「ダッチブレッドありますか?」
孝太郎は大きなトレーに運ばれた数種類のパンを見ながら聞いた。
「はい、まもなく焼きあがると思います。」
「ありがとう、お願いします。」
孝太郎と一緒に食事をするときに佳子はいつも思っていた、
どこへいっても店の人とのやり取りが手馴れていて実にスマートなのだ。
「ねぇっ?ダッチブレッドって?」
「パパが好きだったパンだよっ。」
「ふぅーん、美味しいの?」
「美味しいよ、食べれば分かるよっ」
孝太郎がさっきまでは「親父」と呼んでいたのが「パパ」に変わっていることを
佳子はすぐに気がついていた。
一時間ほどいたであろうか、お腹いっぱいになった2人は勘定を済ませ1階のショップに下りてきた。
「あっ、ちょっと待ってて、私、パンを買っていくわ」
「あぁ、いいよ、ママもいつもそうしてた」
佳子は聞こえぬ振りをしてトレーにパンを載せはじめていた。
アンデルセンを出ると表参道をゆっくりと神宮前交差点に向かう。
孝太郎は癖なのか、それとも自分のマンションの方向が近いせいなのか、
いつも表参道ヒルズ側を歩く。
「去年のクリスマスのイルミネーション綺麗だったわね」
佳子は、昨年表参道で復活したイルミネーションを思い浮かべながら孝太郎に話しかけた。
「あぁ、まぁな、前のイルミネーションの時はパパが反対してやめさせちゃったんだ」
「えーっ、そうなの、知らなかったわ」
「パパはね、その頃の区長選挙の応援演説で雨の中で《見てみろっ!表参道のケヤキがないてるぞーっ》
って、感動的な演説だったんだ。選挙には負けたけどね。」
「えーっ、そうだったんだ、パパって、かっこいいじゃん」
孝太郎も佳子も、自分達が孝太郎の父孝二のことを「パパ」と呼んでいることに気がついていなかった。
「表参道ヒルズって、なかなかおしゃれよね」
「うーん、でも俺は以前のアパートのイメージの方が好きだな」
「そうっかー、私、その頃の感じ知らないから・・・」
「古くからのイメージを残すなんて言っていたのに安藤忠雄もたいしたことないなってパパが言ってた。」
「そうかパパは昔、建築とか設計のお仕事してたんだもんね」
「どうってことないよ、仕事はへたくそで、いいかげんなんだよっ」
少し孝太郎が怒りそうな気配を受けたので佳子は話を逸らそうとして
「ねぇっねぇっ、ほらっ、さっきから前を歩いている子、可愛くない?」
「あーっ」
「ほらっ、おじぃちゃんかしら、手をつないで、おじぃちゃんも嬉しそう」
そういえば確かに表参道を歩き始めた頃から孝太郎と佳子の前を
まだ60歳代と思われる白髪頭の男と女の子が手をつなぎ歩いていた。
女の子は小学3年生くらいだろうか、
時々握っていた手を離し、ブランドショップのショーウィンドーを覗き込む。
そしてまたすぐに戻り、おじいちゃんと思われる男の手を握る。
「じぃじ、こっち」女の子の声が聞こえた。
「そうか、やっぱりおじいちゃんとその孫なんだ」
佳子は、孝太郎がおじぃちゃんになったことを想像すると愉快であった。
もちろん、孝太郎がおじいちゃんということは自分がおばぁちゃんになるということだった。
「じぃーじぃーっ」
さっきの女の子が叫んでいる。
孝太郎と佳子は前方を見たが女の子の姿が見えない。
「じぃーじぃっ」振り向くといつのまに追い越してしまったのだろう、
その女の子が孝太郎と佳子の後ろで大声で叫んでいる。
「じぃーじぃーっ」「じぃーじぃーっ」「じぃーじぃーっ」「じぃーじぃーっ」
「じぃーじぃーっ」「じぃーじぃーっ」
「は・や・く・起きてーっ、じぃーじぃっ」
「んっ?んーんっ?」孝二はゆっくりと目を開けた。
「もーっ、じぃじっ、なんかニヤニヤして寝ていて、変だよっ」
そこには孝二の孫、亜美が仁王立ちにして顔をぷんぷん膨らませている。
「じぃじっ、早く起きてっ、アンデルセン、行くって約束でしょっ」
「うん?もう食べ・・・・」と言いかけて、我に返った。
「そうだったね、亜美っ、さぁっ、行こうアンデルセン」
後記
この分だと私はどこへでも、いつの時代へも行けそうだ。
どう? みなさんも旅に出ませんか?
時を越えて・・・・・・・






