先日、映画「いのちの食べ方」を見ました。

映画を見終わった後の気持ちを一言で表現すると・・・

「善し悪しを超えた食の現実を、いっさいの解釈や演出を抜きにした1本のフィルムの映像と音を通して思い知った!」

という感じです。

この映画は約90分の映画で、カメラの焦点の合わせ方は多少ありますが、それ以外は一切の演出がない映画です。カメラがひたすら淡々と牛、豚、鶏、魚肉や野菜、塩などの食物が私達の食卓に届くまでの、一番最初の段階を撮り続けるという内容です。

そこにあるのは、

・生産者たちの淡々とした日常の仕事の様子

・高度に発達し、機械化された現場

・日常的に命が生まれ、そして消えていく現場

何の言葉も演出もありません。

ただ、私がそこで感じたのは「この現実を通して、私達は何か大切なことを問われているんじゃないか?」という感覚です。

映画を見る前は、私の心の中には漠然とした「いのちの食べ方とは何か?」いう「問い」があったのですが見終わってみると逆に、それを自らに「問い返された」ような気持ちになりました。

答えなどすぐには出ない「問い」だけに、非常に複雑な心境になりました。

しかし、そんな時にふと、以前に聞いた医師の帯津先生の言葉を思い出しました。正確には思い出せないのですが、

「自分の生死について考えたことがない人は、患者さんの生死については考えられないんじゃないか。日頃から自分の生死について考えることが大切だ。そういうことがあって、初めて患者さんに共感できるのではないか。」

という意味のことを語られたように思うのです。

そのことを考えると自分が「答えのない問い」を目の前にした時に、答えなど簡単には出ることはないのだけれど、それを真剣に思い、考えること、そして行動すること、その行為自体に意味があるような気がしてきます。

「食」のこと以外でもこういう「問い」は私達の生きる周辺に溢れています。

「生きるとは何か」、「働くとは何か」、「相手を理解するとは何か」、「身体とは何か」、「心とは何か」  など・・・・。

しかし、こんなことを思いながら、日曜日に本屋さんをブラブラ歩いていたらそんな難しい「問い」が、いとも簡単に解決するかのような本がたくさんあって少し困惑しました。(本当かな?)

どうしても私達は分かり易い答えを求めてしまいますが、実は本質的で、大切なことは多くの矛盾を抱えていて、そう簡単には答えが出ないんじゃないかと思います。

かといって、それを考えないのではなく自分、もしくはみんなで「問い続けること」に意味があるのではないでしょうか?もしかしたら、そのように共有化された「問い」がいつしか共鳴し、私達が想像もしなかったような新しい何かが生まれる力となるのではないでしょうか?


先日、「プロフェッショナル仕事の流儀」というTVを見ました。
その時は海上保安官の寺門嘉之さんの特集が放送されていました。

それを見ていてふと、心に浮かんだことがあります。

寺門嘉之さんにとっての「仕事の報酬」とは何だろう?

TVを見ていると、寺門さんの仕事をする姿から「人命を救助するんだ」という使命感、そして矛盾と困難に満ちた現場の中にあっても「ハプニングを楽しむ」という寺門さんの心の状態が、日々の仕事を充実したものにしているのだなと感じられました。

「仕事の持つ意味」「その仕事の先に見据えているもの」こそが、寺門さんにとっての最高の「仕事の報酬」なんだということが、画面一杯に溢れてくるような番組でした。

しかし、一転してこの「仕事の報酬」という視点で今の社会を見てみると、寺門さんが持たれているような「仕事の報酬観」とは少し違った別の報酬観が溢れているように見えます。

「こんな企業、社員は生き残れない、勝ち残れない」

「年収○○円のおいしい仕事」

「勝ち組、負け組」                              など

確かに世の中には競争が存在し、また仕事から得る収入も生きていくためには決して軽視できない仕事の報酬です。しかし、もし仕事の報酬がそれだけだとしたら私たちは心の奥で何か、一抹の寂しさを覚えてしまうのも事実ではないでしょうか。

もしかしたら「自分だけでなく他人や、世の中を良くしたい」という誰の心の中にもある純粋な「心の灯」をどこまでも真剣に見つめ、燃やし続けることができるか。それがその仕事の価値を決め、このような心の寂しさを癒してくれるのではないでしょうか。

そのように考えると

「いかなる仕事についているか」が重要なのではなく、「その仕事の先に何を見つめているか」

が一番大切なことのように思われます。

「目に見えるもの」「分かりやすいもの」にとかく価値を置きがちな現代ですが、こうした番組を見ていると、実はそれはそれぞれのプロフェッショナルの「目に見えない価値観」にこそ、本当に価値ある仕事の報酬が宿っているように思います。

こうした「心の灯」は何も特別な人だけが持っているのではなく、誰しもが持っているものだと私は思います。大切なことはひとりひとりがこの「心の灯」を真剣に見つ続けること、そして企業や社会はその「心の灯」を信じ、大切に見守り、支援し合うこと。

そんなふうに感じます。


今日、たまたま「メタボ」やこの4月から始まる特定健診・特定保健指導に関するテレビ番組を見ました。

タレントさんや国会議員の先生方、お医者さんたちがメタボ基準の是非などについて激しく議論をしていました。

一方では「タバコを吸う人からもっと税金を取れ!」と述べる方々がいらっしゃったり、また一方では「介入されるのは迷惑だから、自分のことはほっといてくれ。」とおっしゃる方々もいらっしゃる・・・。

冷静に聞いていると、どちらの主張にもその善し悪しはありそうです。

ちょうど薬の作用と副作用のような感じでしょうか。

でも、よく考えてみると人間は機械ではないのだから、万人にピッタリの基準などあるはずがありません。しかし、だからといってメタボ基準のようにその妥当性の是非はあるにせよ、ある一定の根拠に基づいたデータを無視して良いわけでもなさそうです。

本当に大切なことは、もしかしたら今のメタボブームに安易に乗ったり批判したりすることではなく、それをきっかけにしてひとりひとりが「自分にとっての健康」を真剣に見つめ、その上で様々な知識や知恵を戦略的に活用していくことなのではないでしょうか。

「白かっ?「黒かっ?」とどちらかを科学的・論理的に見つめる視点も大切ですが、意外と真実はその中にある灰色の領域にあったりするのではないでしょうか?

では、その灰色の領域とは何か。

それは科学的・論理的思考からは決して見えてこない、ひとりひとりの価値観や考え方。

それなのではないでしょうか。