悪霊になりそこね。 | 潤 文章です、ハイ。

潤 文章です、ハイ。

俺のペンネーム。ジュン・フミアキである。

悪霊になりそこね。

 

二話

まさかよね、孝明であるはずがない。

とっさにそう考えてしまう私の中に、女々しい感情
がなかったわけではありません。いまさらもう戻れ
ない。わかりきっているのに、それでも一縷の望み
と言うのでしょうか、もしやと思ってしまう私。
だけどやっぱり彼ではなかった。ドアを開けて顔を
のぞかせたのは、鈴原祐紀(すずはら・ゆうき)。
ヨシズミセンシング発展の礎となった先端技術開発
推進本部の部長です。そしてその本部長こそ吉住専
務であり、つまりは直属の部下ということになりま
すか。
鈴原部長もMIT卒業のエリートで、私とは同い年
なのですが、彼は学生時代に二年間ほど青年海外協
力隊に所属していて、入社年では私より二期後なの
に歳は同じということに。

それはともかく、このとき私は彼の顔を一目見て、
涙があふれて止まりません。専務との密かな関係を
知らないままアプローチされたことがある。彼はい
までも独身だったし、彼と結ばれていれば違った人
生があったかもと考えてしまったからですが。
彼は元は陸上選手。細身で背が高く、イケメンと言
うなら専務よりも上だと思う。そんなこともあった
から、このとき私は、ああ人生を間違えたと悲しく
なってしまったんです。

ベッドサイドのチェアに腰掛け、彼は言ったわ。
「かける言葉もないといったところだが、いまはそ
れを言ってる場合じゃないのでね」
え? どういうこと?
「専務への内偵を進めるにあたって失礼ながら調べ
させてもらったよ、君と専務の関係を。しかし君は
シロだ。吉川君との関係に悩んだ末にこうなった。
そういうことだね?」
「はい」とは応えたものの彼の意図がわかりません。
「ですけど鈴原さん、私がシロって、どういうこと
ですの?」
「単刀直入に言おう。吉住専務には産業スパイの嫌
疑がかかっていて、私は社長命令で探っている」

かつてのヨシズミセンシングは、民生用のセンサー
を主に扱う企業であり、目立って発展できた企業で
はありませんでした。
鈴原さんは言います。
「君も知ってのとおり、いまや我が社の技術は民生
用に留まらない。軍事転用どころか軍事目的で次世
代のシステム開発を模索している。そんな我が社の

技術が漏れている。それも国内にではなく、我が国

とは同盟関係にある海外のそのスジにだ」
私は震えて聞いています。軍事技術はトップシーク
レットであるのはもちろん、それが漏れたとなると
国家を裏切る事態ともなりかねません。

「そこで君に訊きたい。専務に妙な動きはなかった
か。妙な電話がなかったかとか、あるいは、どこで
誰に会ったといった話を聞かされたことはなかった
かとか、思いつくことがあれば何でもいいが」
「それはいつ頃からなんですの?」
「この話はCIAから我が国政府にもたらされた情
報でね、社長は呼びつけられて詰問されたそうだよ。
で社長も、これは一大事と、専務直属の部下である
私に話が下りたもの。いつ頃というのなら、君には
申し訳ないが専務のフランス出張のすぐ後からだ。
吉川君を本社に据えたのも専務の意向。しかしその
吉川君だが調べてみてもこれといった不審はない。
いいや証拠がないと言ったほうがいいだろう。技術
そのものはガードのしようがあっても、エンジニア
たる専務自身が、たとえばヘッドハントされて相手

国のために動いているとなるとだね・・」
鈴原さんは苦しそうな面色です。専務自身が我が社
のトップエンジニア。相手側につかれればどうしよ
うもないからです。

と、それはそうでも、私との関係はかなり前から冷
えてきていた。専務は賢い人です。いまにして思え
ば、都合がいいだけの情婦の私に漏らすはずもない
ことで。私なんかが立ち入れない世界の話。これと
いったお話もできません。

ですけど私が驚いたのは、それからの鈴原さんの言
葉です。
「君のことも社長は案じておられてね。まず君には

退社してもらう。退職金以上のことはさせてもらう

とおっしゃっておられてね」
私は声にもなりません。厄介者は切っておしまい、
かと思えば、そうではなかった。
「その上で私の指示で動いてもらう」
「動いてもらう? それは調査のために?」
「社内で君以上に専務に近い者はない、と、それも

あるんだが君の安全のためだよ。CIAが注目する

ほどの事態だからね、下手をすると君も危ない。な

にしろ愛人だった女性だからね。無関係であること

を示さないと消される可能性だってあるわけで」
違う意味で震えが来ました。軍事技術は我が国のみ
ならず西側陣営の軍事体制にもかかわること。女一
人の命なんて、まさしくどうでもいいわけで。

鈴原さんは言いました。
「ようするに君を一人にしておけない。君は専務と

こうなって自殺未遂。その人を私が妻とする」
「妻とする・・」
「そういうことだ。いいかね、事が事だ、我々の調
査が進まぬと見るや、しかるべき組織が動いて専務
はもちろん吉川君だって消されるだろう。我が国政
府としてもそれは同じ。社長が社の責任においてカ
タをつけると突っぱねたわけであり、できなければ
我が社の信頼は失墜する。社長はこうおっしゃられ
た。『場合によっては始末しろ。ただし国内では手
を出すな』と」
このとき私は悪い夢かと思ったほど。まるで映画の
中の世界です。

「この際だから言っておく。専務から君を奪ったの
は私だ。この件で君に意思はない。大袈裟でなく裏
切り者は消される世界にいるんだよ」
私はいまにも消えそうな正気の中で言いました。
「私を妻とするのは社長のご意思なんですね?」
鈴原さんの返答しだいで私は受けて立とうと思って
いました。無力だった私に復讐できる力ができる。
そしたら彼、私の目を見てきっぱり言ったわ。
「そこは違う。そう進言したのは私だよ。君への想
いは変わっていない。もういい、よけいなことは訊
くな、黙って俺のそばにいろ」
『私』なんてよそ行きの言葉から、男らしい『俺』
へと変化した。胸に響く言葉でした。

私に取り憑いた死神が去っていく。このとき確かに

そう感じた私です。