永禄3年5月12日に今川義元は、25000人の軍勢で尾張を目指して駿府を出発した。

25000人のうち、戦闘部隊は多くて15000人で後の10000名は荷駄部隊等の兵站要員であろう。

何故荷物運びに10000名も?と言うかもしれないが、25000人だと1日に消費する米の量だけで約37トンになる。

一月の遠征だと約1110トンの量である。

これを大八車で運んだと思ったら、この時代は大八車は存在していなかった。

ということは、人が担ぐか馬や牛に引きずらせたと言うからどれ程大変かお分かりになるであろう?

これで敵陣の尾張、美濃、近江を抜けて京の都に行くという概念があったであろうか?

京の都に駿府から行くと言うのは、現代で言えば「月へ行くぞ!!!」に等しいはずだ。

今から400年後の我々の子孫からすれば、月面に行くことは容易いはずだが・・・

 

大河ドラマや数多の時代劇では、「今川義元は天下に号令をするために上洛」が定説であるが、ここまで読んで貰えれば、それが如何にあり得ないかがお分かりになると思う。

 

古今東西、戦は経済活動の手段なのである。

古代ローマ帝国が地中海周辺を制覇したのは、経済活動の一環であったし、今川義元西進の時欧州は、オスマン帝国の脅威からスペイン、ポルトガルは陸路でのインド貿易を諦めて海路を選んだ。

逆説的に言えば、オスマン帝国が弱ければ、コロンブスもアメリカ大陸を発見する必然性がなかったのだ。

 

では今川義元が経済活動の一環として西進した理由を考えれば、目的地が何処だかは自ずと理解できるのだ。

今川義元が欲しかったのは、那古野湊の利権であったはずだ。

巨大なキャッシュフローが欲しかったのだ。

Googleマップで見て貰えば分かるが、岡崎を過ぎたら安城、刈谷、鳴海と繋がっている。

鳴海城を現在地図で見ると海から距離があるが、埋め立て前の当時は海の音が聞こえる位海に近かったから"鳴海"と付いていたはずだ。

ここまで来ると、那古野湊の喉元になった。

もし、定説通りに上洛ならば、今川本隊は桶狭間に寄らずに所謂東海道を進めば良かったのだ。

 

桶狭間の戦いから8年後の永禄11年に、三国同盟で和を結んでいた武田信玄が、国境より駿河に攻め込み、名門今川はここに幕を下ろしたのだ。

 

その後、氏真は客分として北条に匿われたが、後に神君公により拾われ今川の名は残った。

江戸時代、現在の東京都杉並区はほぼ今川家の領地であり、西武新宿線上井草駅の近くに観泉寺という寺があり、ここが今川家の菩提寺となっている。

更に高家衆として徳川家に仕えている。

今川家は滅んではいないのである。

 

では、今度は信長公の立場で考えると、岡崎城下ので度重なる戦で嫌気が差していた。

父信秀の次代から小豆坂の戦いで岡崎を巡って織田と今川が激突していたし、岡崎城を今川が支配下に入れると、更に小競り合いが起こっていたことは想像に苦しくはない。

信長公の思いは、「今回で終わらせる」であった筈だ。

その為には、何が何でも義元の首であったのだ。

だからこそ今川軍を織田領懐深くに誘い込む必要があった。

もし、岡崎辺りでぶつかっては義元が今川領に逃げてしまう。

 

そうとも知らない今川軍は、織田領の砦を次々と落とし意気揚々であったが、それも信長公の作戦であったのだ。

義元が桶狭間に達しのは永禄3年5月19日であった。

暑かったというが、地の利は織田軍に見方をしていた。

風の動きや潮の匂いとうで、豪雨が近いことを知ると、那古野城を一騎がけで出発した。

何故、前もって作戦を立てなかったのか?

それは、家中にスパイがいたからであろう。

信秀は毒を盛られた。

当時は、我々の知っている武士の忠義はなかった。

武士の忠義は江戸時代に出来たものである。

室町時代は、欲しいものは分捕るし、気に入らぬ奴は殺してしまえが常識であった。

 

もし、予め今川方が織田は決戦を仕掛けるとしれば、安心して進軍などしてこなかったはずだ。

隊列を長くするすれば、15000の自動舞台も数百単位となる。

「大軍を相手にする場合は狭い地形に誘い出せ」と孫子の兵法書にもある。

何度も書くが、この時代のベストセラー書は、孫子の兵法書であり、間違いなく武家なら皆読んでいたはずだ。

問題は、孫子の兵法書で学んだことを実践できる者と単に読んだ者に別れるのは、現代も変わらないのは皆さんもお分かりでしょう?

 

雨が降り出しと織田軍は、今川軍の正面から攻め込んできたが、現在と違うのは舗装路が無く、硬い土でも水を吸うと泥沼化してしまうのだ。

織田軍は雨が降っても硬いあぜ道を知っているから、そこを進軍して来たが、今川はそんなことはつゆ知らず、人も馬も泥に嵌まって動きが取れなかったという。

そこを確実に仕留めていったのだ。

今川義元が臆病者の公家かぶれで無く立派な武将であったのは、全軍の前よりに本陣があった事でも分かる。

だからこそ、討たれてしまったのだが・・・

家臣の日記によると、信長公は「ここに義元の旗本衆がおる!!!」と冷静に大声で叫んでいたという。

そして、今川義元は首級を上げられたのだ。

 

今川家の最大の弱点は、全てを義元経由で動いていたことであった。

 

義元討ち死に後、今川勢は一斉に領国に逃げていたが、信長公は深追いしなかった。

並みの大名ならば、今こそ駿河遠江を制圧!!!となるが、織田の優先順位は今川の駿河遠江よりも美濃が先だったのだ。

信長公の最大の収穫は、義元の首と松平元康であったのだ。

だから、尾張より東は元康に任せた、自身は斎藤龍興討伐に集中したのだ。

 

今川義元亡き後、今川氏真が跡を取ったが、領地経営が旨く行えなかったのは、氏真が無能であったのでなく、主立った重臣を失い且つ、義元の独裁であったから全て0からの構築には戦国という時代が時間をくれなかったからであった。