蒸し米(645)作ろう"大化の改新"と学生時代に年号を覚えた記憶がある。
だが、これは誤りなのである。
645年のクーデターは、"乙巳の変"と呼ばれていて、所謂"大化の改新"は翌年の大化2年に命宣として発令しているからである。
日本書紀によると、6月12日に飛鳥板蓋宮で、当時の大臣であった蘇我入鹿が、三韓(百済、新羅、高句麗)からの使者を迎えて国書を読み上げる厳正な儀式の最中であったが、その使者の中の者が入鹿に斬りかかったのだ。
中大兄皇子は「韓人が殺した」と叫んで逃げ回ってい事からも分かるのだ。
更に、入鹿は皇極天皇に向って「私に何か罪がるのか?」と血の海の中で天皇に無実を叫んだが、中大兄皇子が「入鹿は皇位を脅かそうとした」と叫びトドメを刺した。
これが乙巳の変である。
その日の昼には入鹿が暗殺されたことを蝦夷が知り、甘樫丘という要塞に籠もったことになっている
翌日の13日には蘇我蝦夷が絶望して、天皇記、国記、神代文字で書かれた文書もろとも火を掛けて自殺しているのだ。
神代文字については、日本書紀には記述されていないか、鎌倉時代に書かれた釈日本紀(日本書紀の解説本)に肥人字(九州の古代人の文字)で書かれて古文書が多数あったと書かれているのだ。
更に、船恵尺(ふねのえさか)という人物が燃えさかる炎の中から、国記を命がけで取り出して、中大兄皇子に献上しているのだが、この国記の行方も日本書紀の編纂に使われた形跡がないのである。
ここからは、私の見解であるが、先ずは間違いは無い。
点と点が線になっていくのでお楽しみあれ。
蘇我氏の財力の源は彫金技術であった。
だから、蘇我馬子は仏教の発展を唱えていたのだが、当の馬子はバリバリの神道であった・・・
今も昔も人間の考えることは同じで、国策と商売を同期すれば巨万の富を得ることが出来るのである。
当時の最先端技術は、製鉄、採鉱、非鉄金属の鋳造・彫金技術であり、その最高峰が日本であった。
大陸や半島から技術来たのは嘘である。
何故嘘だと分かるかと言えば、現在を技術の差をみれば一目瞭然であろう!!!!
正に日本人のDNAなのである。
しかし、この頃は仏教は百済経由で入ってきていたので、こと仏教や仏教装飾に関しては百済の方が上だったのだ。
そこで、蘇我氏は百済からの仏教関連の技術者を大量に抱え込んだのだ。
当然その中には犯罪者や暗殺団のような輩も紛れていたが、それらを蘇我氏は匠の使っていた。
百済系は、国際情勢を鑑み、百済は滅びると分かると、日本に住むことを選ぶようになったのだ。
百済系は朝廷内や日本社会で増殖していったのである。
ここまでを踏まえて乙巳の変の2年前の謎に事件を考察する。
上宮宮家滅亡という大惨事が起こったのだ。
これは山背大兄王の一族を皆殺しにした事件であった。
山背大兄王とは、聖徳太子の皇子であり、当時天皇に最も近かったという人物であった。
宮家の中でも別格の格式と人望があったのが山背大兄王であった。
時の天皇は皇極天皇で、天智天皇と天武の母親である。
もし、山背大兄王が天皇に即位すれば、中大兄皇子が天皇になる芽は完全に立たれるのであった。
何故ならばこの後の皇統は上宮宮家になるからであった。
この事件の主犯は蘇我入鹿となっているが、果たして蘇我氏が上宮宮家抹殺という大逆罪を犯すメリットはあるのか?である。
では、一番得をしたのは誰か?を考えると天武を中心とした百済系勢力なのだ。
百済系が朝廷に食い込むには、是が非でも皇統を皇極天皇一派にする必要があったからだ。
現在を考えれば一目瞭然ではないか?
国会議員の多くを朝鮮系や支那人系の帰化人議員が占めている。
帰化人議員を作るためには、"帰化"を容易にする必要があった。
昭和までは日本は世界一帰化が難しい国と言われていた。
国際結婚をしてその間に生まれて子も父親が日本人で有れば日本国籍を貰えたが、母親が日本人の場合は子は日本国籍を保てなかったのだ。
それを"人権無視"という名の元に、帰化法を甘くした。
ここまで30年以上を有しているのだ。
1400年間の飛鳥の御代も、百済系は同じぐらいの時を使っていたのだ。
皇極天皇は女帝であり、即位前は宝皇子といった。
彼女の最初の夫は、高向王(たかむくのおおきみ)という百済の王族であった。
その間に生まれたのが漢皇子であり、これが後の大海人皇子となる。
大海人皇子は中大兄皇子より4歳年上の異父兄弟である。
高向王が死んだのか、殺されたのかは分からないが、宝皇子の再婚相手は田村皇子後の舒明天皇であった。
日本書紀の矛盾点を上げる。
626年:中大兄皇子誕生。
629年:推古天皇崩御に伴い大混乱の末に田村皇子が舒明天皇として即位。
630年:舒明天皇は宝皇子と結婚
この通りだと、中大兄皇子は出来ちゃった結婚どことではなく、結婚より4年前に生まれたことになる。
この時代の御皇族で、婚姻前に契りを交わすことは考え辛いし、宝皇子(皇極天皇)が舒明天皇と結婚前には高向王と婚姻関係にあり、漢皇子が中大兄皇子となるが、百済系であるから流石に即位は無い筈だ。
結婚後に大海人皇子が誕生となるが、日本人の感覚であれば、これは変であろう?
詰まり、本来は大海人皇子が626年、中大兄皇子は630年若しくは631年生まれとなるはずだ。
舒明天皇には他女性が産んだ古人大兄皇子という中大兄皇子には異母兄弟だが、大海人皇子は血が繋がっていない。
ここで忘れてはならない政府が"正史"とされている日本書紀は、百済系であった天武が編纂させたものであるから、自らの出生を暈かしているのである。
だが、個人が書いた書物で一代要記には死亡(インチキと私は断定してるので敢えて崩御とは書かない)した年齢が享年65歳と記載されているのだ。
この死亡時の年齢だと、天武は天智天皇より4歳年上となるのだ。
日本書紀の中大兄皇子と大海人皇子は意図的に生まれ年の入換えをしたのだ。
何故、入換えが必要であったのか?
それは簡単で、斉明天皇(皇極天皇の重祚)であるから、実母の跡を継いだのだが、もし大海人皇子が兄で中大兄皇子が弟ならば、異父兄を差し置いて弟が即位となれば、異父系は皇統から外れている証明になるからだ。
大海人皇子は天智天皇を弑逆した後に、天智天皇の皇子であった弘文天皇を倒して行為を簒奪している。
だから、弘文天皇を即位していないことにして大友皇子と壬申の乱を起こし、皇位を簒奪したことという歴史を改竄したのだ。
だが、どんなに日本書紀内で改竄しても当時生きていた人物は、本当の歴史を肌身に染みて知っていたのである。
天照大神が女性としたのも、天武の仕業かもしれない。
もともとホツマツタヱでは、天照大神は天照君と呼ばれた男性神であり、天照君の妃が瀬尾律姫なのである。
天武が天皇になった根拠は、「私は天皇の皇子だ」の一点だったのではないか?
だからこそ、神話に天照大神は女性にして、そこからの皇統を誇示したのではないか?