栃木県に宇都宮市という町がある。
その昔下野国を領していた宇都宮氏がいたが、この宇都宮氏の祖が藤原宗円といって、藤原秀郷の子孫とされている。藤原秀郷は平貞盛と協力して平将門の乱を鎮めた人物である。
宗円は宇都宮二荒山神社の別当となった。
その後宗円の子の朝綱が"宇都宮"を名乗ったという。
朝綱の孫に宇都宮頼綱という人物がいる。
この頼綱が隠居後に蓮生と名乗り京の小倉山荘に移り住んだのだ。
この山荘に招かれたのが藤原定家であり、頼綱は定家に数ある歌の中から百首を選んでくれと頼まれて出来たのだが、我々の知っている小倉百人一首である。
私が良く知っているのが蝉丸であり、彼のは第十番で
これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
である。
さて、百人一首の第一番目は天智天皇で
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
でり、二番目は持統天皇の春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
と続くのだ。私は子供の頃から坊主めくり専門であったが・・・
さて、百人一首で不思議な事があるのだ。
天智天皇、持統天皇とくれば三番目は天武天皇となるべきでないか?
しかし、三番目は柿本人麻呂の
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
なのだ。つまり、小倉百人一首は天武系統の天皇の読み詠は入っていないのだ。
これは藤原定家の意志が働いていると私は考えた。
もしかしたらこの当時の人々の共通の認識あるいは常識ではなかったかと・・・
これは、大化の御代に思いを馳せねばならない・・・
乙巳の変所謂大化の改新であるが、実は蘇我入鹿は名大臣であり、民を慈しんでいたという。
そんな入鹿が討たれ、都が灰燼に帰し、貴重なる過去の歴史書である天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記 が焼けてしまったのだ。
因みに天皇記や国記は、聖徳太子が編纂されていたという。
だから、4世紀の記録が無いのだが、支那大陸の慌ただしく他国の事にかまけている状況で無かったと言える。
現在も蘇我入鹿の首塚には献花が絶えないという。
では、何故、中大兄皇子と中臣鎌足は、乙巳の変を起こしたのか?は別の機会として、天智天皇と天武天皇について考察する必要がある。
日本書紀や学校の教科書では、兄である中大兄皇子が天智天皇、弟である大海人皇子が天武天皇は兄弟であると書かれている。
しかし、本当にそれは正しいのか?
鎌倉時代に編纂された一代要記や本朝皇胤紹運録(室町)には、天武の崩御は享年65歳と記されているが、これを天智天皇と天武に当てはめると、天智天皇の生まれた年は欽明2年(626)、天武は推古30年(622)となる。
兄弟逆転である!!!
平安後期の扶桑略記もこの二人の兄弟は変であると書かれている。
日本書紀は天武が編纂させた歴史書であることをお忘れなく!!!
では、何故弟である中大兄皇子が先に即位していたのか?が問題になる。
つまり、大海人皇子は本来皇統から外れていたということ証拠ではないのか?
飛鳥時代の天皇の位は、現在と違い親から子ではなく、兄弟間の譲位が普通な出来事であったのだ。
しかし、天智天皇の次は天智天皇の皇子であった弘文天皇(大友皇子)に引き継がれたのだ。
私の学生時代は大友皇子と大海人皇子が壬申の乱で皇位を争ったと習ったが、天皇空位は有り得ないので、天智天皇崩御の後に弘文天皇が即位したのは当然である。
となると、壬申の乱は反逆となるはずだ。
戦後に小林敏男氏著の"天武天皇出生の謎"で、天武は皇統を簒奪したとしている。
天武の父高向王(たかむくのおおきみ)の出自は百済系の王族であり、宝皇女(斉明天皇)との間に生まれたのが、漢皇子(後の大海人皇)であり、宝皇女が再婚した田村皇子後の舒明天皇でこの間の皇子が中大兄皇子であるので、天智天皇と天武は異父兄弟だったのだ。
但し、この時代の百済、高句麗、新羅の王族は、日本の皇族を祖としていたから、神武天皇のY遺伝子は保っていたと考られる。
だからこそ、正当な天皇であった弘文天皇を弑逆して自らが天皇となったのだ。
更に怖ろしいのが、天武は自身の周りを百済系の者で固めていたのだ。
壬申の乱の兵は当然大和系の豪族は大海人皇子の味方にならなかったが、大海人皇子は現在の美濃や尾張に入植させていた百済系を動員したのだ!!!
そして、正当な天皇を弑逆して自ら天皇となり、縄文から連なる伝統を破壊し、大和の豪族の格下げを断行した。
正当な大和の豪族は天武朝を否定したが、圧倒的な武力を背景に黙らせ、自らの正当性を後世に示すために日本書紀を書かせたのだ。
これが天武の正体である。
皆さん、現在の国政と同じ事が1354年も前に起こっていたのだ!!!
歴史は繰り返すのだ。
聖武も此奴の血筋であるし、百済系という似非皇統であったが、ここに登場したのが、称徳天皇と弓削道鏡であった。
天武から八代目後となるが、天武の後の持統天皇は天智天皇の姫皇子であるから大和系の正当なる天皇であったし、称徳天皇は孝謙天皇が重祚しているので実質百済系は5代の約100年であった。
弓削道鏡は僧侶であり、称徳天皇が孝謙天皇であったときに重い病となり、加持祈祷で救ったのが道鏡であった。
それ以来信頼厚く、称徳天皇となったときは朝廷内でも高い役職に就いていた。
その後、「道鏡が天皇になれば天下太平なる」と言って、皇位を皇統以外の弓削道鏡に譲ろうとし、日本に大激震が走る事件を起こしたのだ!!!
多くの大和の豪族達は、反対したが称徳天皇はガンと聞かなかったが、最終的に御神託を受けるということで納得させ、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ使者として使わした。
ここで不思議に思いませんか?
天皇の一大事を何故伊勢神宮でなく、九州の宇佐八幡宮だったのか?
これこそ、神武天皇の即位の秘密があるのではないか?
私は宇佐八幡宮に今回の九州方面ツーリングで詣でたが、宇佐八幡宮の後方に国東半島があり、ここは太古のペトログリフ(岩刻文字)があり、神武天皇以前の天皇の名が記されているとう。
私は別府から宇佐を目指してバイクで走っていると、国東半島の南の端の県道658号線で奇妙な物を見付けたのだ。
更に、土砂崩れの跡見付けたのだ。
土に混ざり、同じような大きさの石が流れていた。
この山の上には超古代の遺跡があるのでは?と確信したが・・・
超古代の聖地が宇佐であれば、御神託が伊勢神宮でなく宇佐八幡宮だという事に私は納得できたのだ。
さて、宇佐八幡宮での御神託は
「我が国家開闢以来、君臣定まれり。臣を以て君となすこと未だこれ有らず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」
であった。今風に書けば、「日本が始まって以来主君と臣下の区別は定まっている。臣下が天皇になった例がない。皇位は必ず皇族が継ぐべきである。不当な者は速やかに退けろ」である。
御神託は769年、称徳天皇崩御が770年であった。
私は当初、弓削道鏡失脚を神々は指示されたと思ったが、御信託の翌年に享年53(数え)で崩御であった・・・
こうなると、"皇族"に天武を含まないという意味では無かったのか?と思うと、称徳天皇が崩御して、即位されたのは光仁天皇であり、即位の時御年62歳であったが、彼は天智天皇の孫に当たるお方であった!!!
つまり、諡は"光"と"仁"つまり、皇統が似非から本筋へ戻ったことを意味している。
光仁天皇の次が平氏の祖である有名な桓武天皇である!!!
そして、現代の陛下へと繋がるのである。
この皇位簒奪を暗号に記した人物がいた。
彼の名は淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の学者であったが、彼こそが弘文天皇の曾孫に当たる人物であり、彼の功績は唐風の諡号を付けた人物であった。
そして、天武の簒奪を後世の我々に暗号として残した人物であった。
支那歴代王朝最悪な暴君暗君として言い伝えられているのは、殷の紂王(ちょうおう)が死の間際まで付けていた宝石が天智玉というなであった。
紂王を弑逆して彼の家臣でり周王朝を開いたのが武王つまり天武としたのだ。
天武は弘文天皇を弑逆しただけではなく、こともあろうに天智天皇をも手に掛けていたのだ!!!
天智天皇は独りで馬に乗り山奥に入り帰ってこなかった。
捜索したら天皇の靴が落ちていたという・・・
しかし、天武は後に日本書紀で病で亡くなったと嘘を書かせたのだ。
この暗号に気が付いたのが、約1300年後の明治の文豪であった森鴎外であった。
鴎外は軍医総監を退官した後に、帝室博物館総長兼図書頭となり、古代天皇の諡を調べていて三船の暗号に気付いたのだ。
そして、彼は命がけで帝諡考を書いたのだ。
帝諡考は正に神武天皇から明治天皇までの諡を調べるという意味と、"偽造されたお笑いぐさ"という意味も込めての題名とした。
恐らく、平安や鎌倉時代には、天武は簒奪者という共通認識があっと思っている。
だからこし、藤原定家は敢えて、天武派の詠を省いたのではないか?
詠とは言靈であり、その詠を我々が口に出すと神聖な霊力が宿るとされている。
だからこそ、呪われた天武朝の詠を敢えて省いたのではないか?
正に歴史はロマンであるし、温故知新なのだ。
今ある国難は1300年以上前の飛鳥時代にも起こっていたが我々の先祖達は巧みに乗り越えてきたのだ。
彼らに出来て我々に出来ない道理はないのだ。


