15世紀、室町時代の日本を考察する必要がある。
文永の役とは文永11年(1274)で弘安の役の弘安4年(1288)の2回、日本は未曾有の危機であった元寇があった。
元寇より約200年前の寛仁3年(1019)には、刀伊の入寇という女真族を中心とした海族が対馬、壱岐、北九州を襲撃した。
刀伊の入寇も元寇も日本は、略奪暴行、民の連れ去りの被害を受けていた。
特に、元寇は凄まじく、対馬の島民は皆殺しにあっていた・・・
これは元寇の時の有名な絵であるが、反日教育の賜の編集だとご存知か?
この絵からだと、日本の侍がフルボコになっているように見えるが、この絵の左側には、実は逃げている蒙古軍に襲いかかっている絵なのである。
事実その後、現在と違って当時の日本人はヤラレぱなしではなく、10000倍返しをしていたのだ。
有名なのは倭寇であるが、前期と後期があるのだが、前期倭寇は日本人で構成されていて、元や高麗の港湾都市や物流拠点を急襲し、略奪暴行、放火の限りを尽くし、大陸を震え上がらせたのだ。
更に元朝末期には、山東半島から江南地方主要な国湾都市や朝鮮半島の首都付近にまで、数百隻の船で襲いかかり、都市の富を根こそぎ奪っていたのであった・・・
更に、明朝時代も同様にやりたい放題であった。
室町時代は、「3代将軍足利義満が、明国皇帝に対して臣下の礼を取り明の冊封体制に組み込まれた〜」売国奴だ〜と騒ぐ輩が多いが、実態は違ったのだ。
朝貢に見せかけた略奪暴行の限りを尽くし、明国を恫喝していたのだ。
当時の慣例では、貢ぎ物を献上したらその数倍の土産を貰ってきたのだが、義満の使節は10倍は寄こせと宮廷で大騒ぎしたのであった。
要するに、臣下の礼を取り頭を垂れているが、その手で皇帝の頭を叩いていたという事である。
義満がなくなった跡、4代将軍義持は不仲であった為に、義満が行った対明政策を卓袱台返しをした。
明国朝廷から義満公が亡くなったことに対しての弔問使節を京の都に入れずに追い返してしまい、"我が国は古来より、神仏を崇め、独自の礼儀を持って国を治めてきた。異国(明)に対して臣下の礼を取ることなど、神仏の意に反する。よって、今後一切の朝貢(貿易)は行わない。使者は速やかに国へ帰るがよい"という声明文まで発表した。
明国はモンゴル親征を計画していたが、義持がこれでは日本軍が攻め込んでくるかもしれないと国内は大パニックになった。
以降なんども"友好"を願う使者を日本に送ったが、家持ちは全て無視したのだった。
明国は日本との"貿易"が必要であるのと同時に、日本も日明貿易が必要だったのだ。
言い換えれば、デフレ脱却のために、余った商品も大量に売り込む先が必要だったのだ。
6代将軍足利義教が、日明貿易という略奪貿易を再開したのだ。
一番ヤバかったのは8代の足利義政であり、明朝の宝物をほぼ略奪してきたのだ。
最後には「もう来ないでください。せめて10年に1度か、貿易船も三隻以下でお願いします」と土下座までさせたという・・・
しかし、日本側は情けもなく、明のお願いを無視して骨の髄までしゃぶりつくしたのであった・・・
日本人商人も悪まであった。
商人が商売しに民国に渡るのだが、港町に上陸すると先ずは略奪暴行の限りを尽くし、いい加減飽きたからそろそろ商売するかと二束三文の品を高額で売りつけてきたのだ。
江戸時代初期まで日本国内には明国の銅銭が普通に使われていたのだが、これを不思議に思っていたら明国に行って大量に略奪してきていていたらであった。
普通に金として日本国内で流通する量なのだから、略奪の凄まじさが分かると思う。
大名貿易もあって、大内氏や細川氏も明国へ商船を送り込んでいたが、これの方が倭寇より始末が悪かったという。
大永3年(1523)に起きた貿易に於いて東アジア最大のバイオレンスが起こったのだ。
これを"寧波の乱"と言うのだが、大内の船団と細川の船団が、明国の交易都市寧波で衝突して、港を焼き払い明国の高級官僚を斬り殺し、鎮圧に駆けつけた明国正規軍を両家が力を合わせて返り討ちという血祭りに上げてしまったのだ。
この事件が明国内の港湾都市に流れると、日本人に対しての恐怖で震え上がったというのだ。
その後、明国朝廷は「日本人は野蛮で好戦的だから、この際貿易を禁止しよう」となり、明国は外国との貿易を禁止したのだ。
しかし、現実は明国の特に湾岸エリアや裕福層の富は対日貿易に頼っていたので、数年後に明国使節が大内家を訪ねて「再開をお願いします」と懇願したという。
以降、明国朝廷では、「日本にちょっかいを出すな」が共有されていたという。
現在、習近平の支那の艦が日本のEEZや尖閣諸島に入ってくる事件が多発しているが、昔の我々のご先祖の過激さに比べたら可愛いものであると言える。
支那の歴代王朝は中華が世界の中心で、蛮族は貢ぎ物をもって皇帝に挨拶に来いというスタンスであったが、その馬鹿なプライドを利用してフルボコにしてきたのだが中世の日本であった。
多くの者が太閤の明国出兵は愚かであったと言うが、これを読んでも同じ事を言えますか?
太閤軍の帰国は、明国や朝鮮が強かったからではなく、不潔で不毛な大地に嫌気が差した将兵の望郷の念が勝ったからであった。
太閤遠征の漁夫の利を得たのは、女真族のヌルハチ一派であり、後に清朝が成立するのだが、女真族にも「日本にちょっかい出すな」のDNAが残った。
最終的に明治27年(1894)の日清戦争でも、中華思想によりやむなく戦った清朝がフルボコにされたのは有名であった。
そして、第二次世界大戦であるが、ここでも漁夫の利を最大に受けたのは、毛沢東が率いた共産党軍であった。
温故知新でいえば、日本は支那大陸に行くとろくな目に遭わないというとだし、支那が強気に出たらボコるということである。
これが正しい日中関係なのだと思うが・・・
