山内上杉家の家督を相続した長尾景虎は、上杉政虎と名乗ることとなった。
永禄4年(1561)、上杉家の名跡を継ぐために鶴岡八幡宮を目指したが、その頃には反北条の大名や国衆が政虎のもとへ集結していた。
その数は後世の軍記物では十万とも伝えられているが、実際にはそこまでの大軍であったとは考えにくい。仮に多く見積もっても五万人前後、実数は二万人程度ではなかったかと私は考えている。
政虎はその軍勢を率いて小田原城を包囲した。しかし結果として小田原城は落ちず、約二か月で軍勢は解散している。
包囲中、北条氏康は「奴らはそのうち引き上げる」と語ったと伝えられている。
結果的に氏康の予想は的中した。
上杉政虎は生涯で十回近く関東へ出兵しているが、ここで現実にも目を向けなければならない。
近年の研究や各種史料によれば、上杉軍は関東出兵の際に村々を襲撃し、略奪や乱取りを行い、人々を越後へ連行していたとされる。
春日山城下には奴隷市場が存在したとも伝えられ、人が売買されていた記録も残っている。
川田長親の記録や『関東古戦録』などには、そのような記述が見られる。
毘沙門天の化身を自称し、「義」を掲げた武将の一面としては非常に意外な話である。
もっとも、公平を期して書けば、十六世紀当時の世界では奴隷売買は決して珍しいものではなかった。
乱取りもまた戦国時代の軍事慣行であり、兵士に対する褒賞制度の一部であった。
その意味では、政虎だけを特別視するのは歴史的には正確ではない。
しかし、そのような時代背景を考慮した上でも、毘沙門天の化身を名乗り「義」を掲げた人物がこれらの行為と無縁ではなかった事実は、考察する価値があると思う。
一方で、当時としては極めて珍しく、織田信長は略奪や暴行、奴隷売買を明確に禁止したと伝わる。
なぜそれが可能だったのか。
私は、織田軍の軍制そのものが変化していたからだと考えている。
戦国期の軍隊の多くは農民動員が中心であり、兵士たちは命を懸けても十分な報酬を得られなかった。
だからこそ「三日間の乱取りを許す」といった形で報酬の代わりとしていたのである。
しかし織田軍は徐々に常備軍化・職業軍人化が進み、兵士には給与が支払われていた。
現金収入がある以上、略奪に頼る必要がなかった。
京都では多くの大名が入京すると商家が木戸を閉めたが、織田軍が来た時は逆に店を開けていたという話が残る。
兵士たちが現金を持っていたからである。
さて、話を上杉家に戻そう。
上杉謙信は生涯で二度上洛している。
第一回は天文22年(1553)、第二回は永禄2年(1559)である。
この時点ではまだ長尾景虎であった。
永禄2年の上洛については、同時代史料である公家・山科言継の日記『言継卿記』に約一五〇〇人と記されている。
私は後世の軍記物よりも同時代人の記録を重視する立場であり、この数字が最も信用できると考えている。
五千人や一万人という数字も存在するが、後世の誇張が混じっている可能性が高い。
もっとも、この一五〇〇人という数字も「京都で確認された人数」であり、越後を出発した総兵力とは別に考えるべきであろう。
私は景虎の上洛は、後世に語られるような大軍遠征ではなく、大名行列に近い性格だったと考えている。
越中・加賀・越前はいずれも上杉家の領国ではない。
もし越後勢が大量の兵糧を携えた完全武装の軍勢として進軍してきたなら、沿道の大名たちは警戒したはずである。
事前交渉を行い、見返りを支払い、現地調達を中心とした移動であった可能性が高い。
永禄2年の上洛においては、将軍足利義輝との関係強化が大きな目的であった。
そして、そのわずか二年後の永禄4年には上杉家相続と関東管領就任が実現している。
決して無関係な出来事ではなかっただろう。
しかし、その栄光の裏側で資金はどこから出たのか。
永禄元年から永禄2年にかけて景虎は棟別銭と呼ばれる臨時税を強く徴収した。
また直江津をはじめとする港湾や関所での徴税も強化し、日本海交易から上がる利益を徹底的に吸い上げている。
青苧商人に対する課税も強化された。
後世の歴史家は景虎を「義の武将」として描くことが多い。
しかし現実には、その義を実現するための費用は家臣や領民が負担していたのである。
さらに永禄4年には上杉家相続、関東管領就任、小田原城包囲、そして第四次川中島の戦いが続いた。
その軍事行動の規模は、現代人が想像する以上のものであった。
私は時折思うのである。
景虎は越後を守るために戦っていたのか。
それとも「義」という理念を追い求めるあまり、越後そのものを疲弊させていたのか。
この疑問は、その後の越中出兵や能登遠征を見ても消えることはない。
そして永禄12年頃、上杉輝虎は出家して「謙信」と名乗るようになる。
以後も北陸への出兵は続き、天正年間には越中・能登へ大軍を送り続けた。
私は手取川合戦についても、後世の軍記物による脚色が少なくないと考えている。
上杉軍の大勝利という伝承は有名であるが、織田方の一次史料には大敗北を裏付ける記録が乏しい。
むしろ七尾城陥落を知った柴田勝家が撤退を開始し、その過程で両軍が対峙したと考える方が自然であろう。
その後、謙信は越後へ帰国した。
そして天正6年(1578)、春日山城で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
一般には脳卒中説が有力である。
しかし私は、あまりにも不自然な点が多いと感じている。
国内は疲弊し、なお関東大遠征を命じようとしていた。
家臣たちは限界に達していたのではないか。
もちろん確実な証拠は存在しない。
あくまで私見ではある。
だが私は、単なる病死だけで説明できない何かがあったのではないかと考えている。
こうして上杉謙信は世を去った。
その後、御館の乱、新発田重家の乱が続き、上杉家は大きく国力を失っていく。
皮肉なことに、戦乱の時代が終わり米沢十五万石となった頃の方が、上杉家と領民にとっては平穏な時代だったのかもしれない。