天文17年(1548)、長尾景虎は兄・晴景に代わり春日山城へ入り、長尾家の実権を掌握した。

幼名を虎千代といい、幼少期は春日山城の麓にある林泉寺に預けられていた。林泉寺は曹洞宗の名刹であり、景虎はここで禅や仏教、漢籍などを学んだと考えられている。

ここで重要なのは、景虎が信長や武田晴信のような、いわゆる領国経営者としての帝王学を十分に受けていなかったことである。

織田信長は尾張守護代家の嫡男として育ち、武田晴信も甲斐守護家の嫡男として家督継承を前提とした教育を受けていた。

一方で景虎は寺院で育った。

同じような例として今川義元がいるが、今川家は足利一門の名門であり、母・寿桂尼という卓越した政治感覚を持つ女性の存在もあった。長尾家とは事情が大きく異なっていたのである。

景虎が正式に出家した記録はなく、僧侶になるための修行というより、寺院で学問と精神修養に励んでいたと考える方が自然であろう。

その頃に身につけた禅的思考や仏教観、そして漢籍の教養が、後年の上杉謙信という人物を形作ったのである。

景虎が実権を掌握した時の年齢は十九歳前後であった。

現代でいえば高校三年生から大学一年生程度である。

知識は豊富でも社会経験は乏しい。

ましてや国人衆同士の権力闘争が渦巻く戦国の世である。

寺から引きずり出されるようにして栃尾城代となった時も、我々でいえば高校入学前後の年齢であった。

その若者が、突如として越後国の命運を背負うことになったのである。

 

景虎が掌握した越後国は、決して一枚岩ではなかった。

上田衆、揚北衆、魚沼衆などの有力国人衆がそれぞれ半独立状態にあり、長尾家の統制は極めて限定的であった。

まず上田衆である。

その中心人物が坂戸城主・長尾政景であった。

政景の正室は景虎の姉・仙桃院であり、親族関係にあったが、政景は景虎に反旗を翻す。

これは政景が兄・晴景と同世代であり、従来の体制を支持していたことが大きな理由であろう。

現代風に例えるならば、大学生が高校生に頭を下げられるかという話である。

若い景虎に対する反発は決して不自然ではなかった。

しかし景虎はこれを武力で鎮圧した。

それにもかかわらず政景を処刑することなく許し、重臣として取り立てたのである。

結果として上田衆は景虎政権の重要な柱となった。

なお、永禄七年(1564)、政景は坂戸城下での舟遊びの最中に溺死した。

事故死とも暗殺とも言われるが、真相は現在も分かっていない。

そして政景と仙桃院の子こそ、後の上杉景勝であった。

 

一方、北越後には揚北衆が存在した。

新発田氏、本庄氏、色部氏、中条氏、加地氏、竹俣氏、黒川氏など、癖の強い国人領主たちが勢力を張っていた。

彼らは互いに領地境界を巡って争いを繰り返し、長尾家の統制を容易には受け入れなかった。

高校生同然の年齢で長尾家を継いだ景虎の前には、妖怪のような老獪な大人たちが並んでいたのである。

さらに中条藤資は、自らの立場を強化するため伊達家と結び、伊達稙宗の子を越後守護上杉定実の養子に迎えようと画策した。

もしこれが実現していれば、長尾家の越後支配の正統性は大きく揺らいでいたであろう。

結果として他の国人衆の反発や伊達家内部の天文の乱もあって実現しなかったが、景虎にとっては極めて危険な政治工作であった。

 
現代企業に例えるならばこうである。

創業家の社長を実権のない会長へ追いやり、自ら社長となって会社を大きくした父親が亡くなった。

後を継いだ兄は凡庸で社内は混乱する。

そこで僧侶になるはずだった弟が無理やり社長に担ぎ出された。

しかし役員会はまとまらず、各支社は本社の命令を聞かない。

さらに有力専務が外部から新たな社長候補を連れてきて、会長の養子にしようとしている。

景虎が置かれた状況とは、まさにそのようなものであった。

 

この状況を打開する方法は一つしかなかった。

武力による実績である。

景虎は黒田秀忠、大熊朝秀、北条高広ら有力国人を次々と武力で制圧した。

戦の才を見せつけることで、自らの存在を認めさせたのである。

では、なぜ越後では国人衆がここまで独立性を保てたのであろうか。

答えは地形にある。

越後平野は山々に囲まれ、日本海だけが外へ開けていた。

地政学的に見れば、越後は陸の孤島であった。

大軍が容易に侵攻できる土地ではない。

そのため国人衆も外敵に対抗するために強力な中央権力を必要としなかったのである。

 

これを対照的に示すのが近江の浅井家である。

浅井家も元々は国人領主の盟主に過ぎなかった。

しかし周囲には朝倉氏、斎藤氏、六角氏と強敵がひしめいていた。

各国人が勝手に行動していては飲み込まれてしまう。

だからこそ浅井家を中心に団結し、戦国大名化を進めたのである。

その意味では、越後は良くも悪くも安定した土地であった。

そしてその安定こそが、景虎を苦しめたのである。

 

そんな中、景虎は武田晴信との長き対決、川中島の戦いへと向かっていくのであった。

しかし景虎にとって、より大きな転機は別のところから訪れる。

天文二十一年(1552)、関東で北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政が越後へ逃れてきたのである。

景虎は憲政を厚遇し続けた。

そして永禄三年(1560)、ついに上杉家相続の話が持ち上がる。

翌永禄四年(1561)、鶴岡八幡宮において景虎は正式に上杉家の家督と関東管領職を継承した。

これより長尾景虎は上杉政虎となる。

 

翌永禄4年(1561)、景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮において上杉憲政より上杉家家督と関東管領職を継承した。

ここで興味深いのは、当時の鎌倉が北条氏康の勢力圏であったことである。

「敵地のど真ん中で家督相続など出来るのか?」と思う読者もいるであろう。

しかし、前年の永禄3年(1560)、景虎は大軍を率いて関東へ出兵し、北条氏を圧迫していた。

北条氏康は小田原城へ退き、景虎は鎌倉へ入っている。

つまり、この家督相続は敵地へ忍び込んで行われたものではなく、景虎が軍事的優位を確立した上で執り行われた政治的儀式だったのである。

更に、その場所が鶴岡八幡宮であったことにも大きな意味があった。

鶴岡八幡宮は源頼朝以来、関東武士にとって特別な存在であり、武家政権発祥の象徴とも言える場所であった。

景虎はそこで上杉家の家督と関東管領職を継承することによって、

「私は越後の長尾景虎ではない。」

「関東武士を率いる正統な棟梁である。」

と天下に示したのである。

この時点で景虎は、もはや一地方の守護代ではなかった。

東国全体の秩序を担う存在として、自らを位置付けようとしていたのである

 

関東管領職は、名目上は東国最高の権威であった。

しかし戦国時代において、その権威そのものに実力はなかった。

北条氏康は従わず、多くの戦国大名も幕府の権威を軽視していた。

だが、景虎にとって重要だったのは関東ではない。

越後であった。

守護代長尾家の当主ではなく、名門上杉家の当主となったことで、景虎は初めて越後国を統治する大義名分を手に入れたのである。

長尾景虎から上杉政虎へ。

それは単なる改名ではなかった。

越後の若き戦国大名が、東国の盟主へと歩み始めた瞬間だったのである。

 

つづく