本日はざっくりと長尾景虎に付いて考察しようと思う。

ここでハッキリと宣言するが、私は長尾景虎が大嫌いである。

歴史上の人物を考えると、皆さんはまるで物語の登場人物のように思うであろうが、もし、自分が此奴の下にいたら?若しくは上であったら?という視点で考えてみると、人となりが見えてくる者である。

 

では、現代風に置き換えよう。

そこそこ大企業の長尾商事に皆さんは務めるとしよう。

営業部に配属されたが、給与は並の下であるが、朝から晩まで働かされている。

そして、部長等上司が地方に飛ばされたり解雇され、あたなは入社10年目で営業三課課長になった。

しかし、経費は認められずに、自腹で出張や接待をせねばならないが、この1000億円の契約を取れば、特別ボーナスで1億円も夢じゃ無い。

これを課員で割っても私の取り分は、持ち出し分を差し引いても儲かる!!!

課員にも、「特別ボーナスで1億円は社長が約束してくれたから、皆、頑張ろう!!!」と鼓舞する。

課員も独り800万円は来るから、寝ずに頑張るという空気が流れていて、営業三課は一つに纏まっていた。

そして、とうとう契約まで漕ぎ着けたのだ!!!

皆達成感に満ちていたし、課長が自腹を切って経費を出してきた苦労も共有していた。

大型契約の為、社長、専務が先方に出向いていた。

夕方、部長に呼ばれ「今回の契約は無しだ」と告げられた・・・

納得がいかずに社長室に乗り込んだら、社長から「うちと競っていた上杉貿易はな、昔俺が世話になった会社なんだ。義理を立てて今回はあちらに譲った」と言われた。

当然経費精算など無い・・・

これでも、長尾商事で仕事が出来ますか?

そん折、ライバル会社の武田物産から「ええ、その給料でやっているの? うちに来いよ」と言われたら、皆さんはどうしますか?

このまま長尾商事に残りますか?それとも必要とされている武田物産に転職しますか?

 

長尾景虎は"義"を重んじていたが、家臣領民に対して仁はなかったのだ。

仁義のうち、仁と義が釣り合っていなかった。

ライバル視されている武田晴信は、"人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり"と仁に振っているのだ。

 

では、長尾景虎の生い立ちとその時代の越後国を振り返ってみよう。

越後は守護大名の上杉家の力が弱く、実質氏越後を差配していたのは守護代の長尾家であった。

長尾為景が"永正の乱"(1507〜1508)によって、守護であった上杉房能(ふさよし)を追い払い、実質越後の実質支配を確立した。

 詰まり下剋上を行ったのだ。

参考までに、織田信長公は天文3年5月12日(1534年6月23日)生まれであるから、30年近く前の話である。

 

ここで皆さんの頭の中をスッキリとさせましょう。

江戸時代は、日本全国津々浦々まで公方様の持ち物であった。

全ての武家は将軍に跪いていたし、将軍の家臣であった大名家の"家臣"が日本全国を治めていたのだ。

それは徳川の時代の話であり、それ以前は、国守はいたが、今で言う町や村は土着の国人衆が治めていて、その国人衆は守護大名の支配下であったが、実質的な家臣ではないのである。

国人衆の歴史を考えると、現代まで続く日本の闇が見えてくるのだ。

 

話は"乙巳の変"こと大化の改新まで遡るのだ。

大化の改新で新たに出来た法が、"公地公民"制度であった。

今まで豪族達が独自に開墾した田畑を全て公の物にするという法である。

その後、養老7年(723)に、豪族達に旨みがないから彼らは三世一身法を施行した。

これは新田を開墾したら開墾した人間から3代、詰まり孫の代までは私有を認めるという法であった。

その後天平15年(743)に聖武天皇の勅命で"墾田永年私財法"が施行されたのだ。

公地公民が崩壊した瞬間であった・・・

ここで抑えねばならなのは、聖武天皇の后であった光明皇后は藤原不比等の娘であったのだ!!!

詰まり、藤原が懐を肥やすために、勅命を利用した構図である。

その後、更に藤原は私利私欲のために"荘園"を編み出したのだ。

荘園とは田畑なのだが、田畑から取れる作物は課税対象であったが、「荘園は田畑にあらず。庭だ」として納税をしなかったのだ。

所謂Lawmakerが藤原摂関家であったので、税務署の役人ふぜいが取り立てることは不可能であったのだ。

あれ?これって現代と何が違うの?

国会議員は政治資金の名の元に相続税を免れ、所得税すら大減免しているのだ。

唯一水戸黄門こと徳川光圀公だけが、凄かったのだ。

御老公は、隠居後に西山荘に住まい大日本史編纂をしていたが、傍らで田んぼを作り米作りもしていた。

当然収穫があったので、納税のために代官所に行くと皆が土下座して「そのような筆はございません」と言ったが、御老公は「隠居して今は領主で無く領民となったのだから、納税は当然だ」と言われ、払っていたというのだ!!!

この差は何だ?

平民の分際で合法的脱税や私利私欲でしか動かない議員は何者だ?

だから、AIが「今の日本は幕藩体制にした方がいい」と言うのである!!!

 

話が逸れたが、荘園は脱税システムであり、それも合法化していたのだ。

平安後期には天皇すら荘園を保たねば生活できない状況であったのだ・・・

荘園は天正10年(1582)から4年間全国を検知した所謂太閤検地で消滅したのだ。

 

この荘園制度だが、これを加速させたのは奇しくも藤原摂関制度であった。

同じ藤原姓でも摂関家からはなられた役職が無かったのだ。

こうなると、生き残りを掛けて都落ちするしか方法がなかったのだ。

そこであらゆる手を使って国守になることであった。

例えば、武蔵守に任官されたら基本任期4年であったので、今の東京の府中に行き公費を使って新田開墾し、任期が切れても都に帰らずにそのまま土着していったのだ。

桓武平氏は現在の茨城県に勢力を持っていたのもこの方法であった。

霞ヶ浦辺りの領主が平将門公であったのだ。

 

こうして、都を捨てて地方に残った者達が国人衆となったのだ。

室町時代は、幕府が守護大名を選出してその地にやって来るが、守護大名家と国人衆には主従関係は無かったのはお分かり頂けたか?

但し、社会システムとして守護大名制度の組織には加わっていたのだ。

 

長尾為景は、越後の国人衆を武力で押さえ込み始め、永正の乱で主家であった上杉家を破ると、国人衆が長尾家の元に集まったのだ。

しかし、為景は齢50代で急逝してしまったのだ。

後を継いだのは嫡男の春景であった。

長尾春景は、武人ではなく文人であったのだ。

詰まり、政治等の実務には長けていたが、戦は苦手であったのだ。

越後の国人衆は父為景の武力に従っていたのであったので、春景では危ういという空気が生まれ、弟の景虎に白羽矢が立ったのだ。

家中内のクーデターで景虎が領主となった。

が、春景は隠居後に死んでいるのだ・・・

この暗殺は家を割らないためにも必要であったと私は考えている。

 

だが、越後衆のこの判断が間違いであった事は遠からず身を以て知ることになるのだ。

 

つづく