私が武田家を書こうと思ったのは、この冬にロサンゼルスの自宅でNHK大河ドラマ武田信玄を観ていて疑問に思ったからだ。

信玄晩年に、武田信玄上洛説が描かれていた。

私が何故"説"と書いたかというと、間違いなく信玄は上洛を考えていなかったからである。

皆さんに問いたいが、では、もし武田信玄が上洛を狙ったとしたら、上洛して何をしようとしていたのか?である。

京都見物? 天子様や公方様に拝謁する為に、15万貫ばら撒くのか?

15万貫という金額は、当時の武田家数年分の甲斐、信濃の総予算に相当する。

大河ドラマでは、武田軍が上洛するのに必要な金子は約15万貫、現在掻き集めて8満貫、7満貫が不足していると勘定方が言っていた。

すると、諏訪勝頼が信州から7満貫集められるかもと言っていた。

 

おいおい、信長公が木下藤吉郎に、支配下に於いた"堺"から「野銭代3満貫徴収してこい」と命じられて、どれ程苦労したのか分かっていないのか?

結局、払わねば街ごと焼き皆殺しになると脅して支払わせた額が、3満貫である。

悪いが、山奥の甲州と信州、逆さに振っても7満貫は有り得ないし、そもそも武田が8万貫を持っていることも有り得ないのだ。

15満貫という金額は、現在で言えば、超一流企業の年間予算に匹敵する額だという。

AIの資産では、信長公でも直ぐに用意できる額では無いというし、そもそも手元に8万貫もあれば、非効率な金採掘などしていというのだ。

8満貫と言えば8万人分の年収に当たるという。

武田家の経済は物々交換であり、キャッシュフローは無かったのだが、実際に兵士に現金支給する現金は持っていなかったのだ。

 

15満貫は、完全にドラマのヤラセの金額である。

更に、武田の軍勢数だが、2万人規模と言うが、それすら眉唾だと私は考えている。

先ず、2万の軍勢と言えば、現代の歩兵に当たる足軽は徴兵させる。

武田家中は純粋な武家は、約4000名だっと言うが、これは直臣と陪臣、そして国人衆が入っての数である。

国人衆とは、現代で言うと地方の中小企業や農家といえる存在である。

彼らは平時はそれぞれの家業に従事しているが、戦となると武装して馳せ参じると考えると理解しやすい。

江戸時代の人気本に出てくる武田二十四将が直臣の代表格で、有名処は山本勘助、馬場信春、高坂昌信、内藤昌豊、山形昌景、真田幸隆などである。

彼らは甲州や信州に領地を保ち、通常は領地で生活をしていて、軍議があるときに甲府の躑躅ヶ崎館に集まってくるのである。

だから、武田は都市経営が出来なかったので、キャッシュフローが無かったのだ。

これを本格的に行ったのが、信長公であり、城下に家臣団を住まわせた。

もし、信玄も家臣団を甲府に住まわせていたら、4000の武士の半数であれば、2000名が住むが、家族を入れれば1万人を超える規模の街となったのだ。

こうなれば商人も行商を止めて定住型の店舗となったのだ。

町人が集まれば街の規模は直ぐに数万人規模となれたのだ。

 

私は実際は武田の所謂上洛軍の人数は、軍勢1万、兵站要員1万が妥当であった思うが、実際は軍勢は8000人規模だったかもしれない。

信玄は晩年、回りに敵を作りすぎた。

東は北条、北は上杉、北上野まで敵に回したから、全軍総出は有り得ない。

国境守備隊も必要であった。

武士団4000名の内、頑張って2500ではないか?

AIの試算では、戦闘部隊6000名〜8000名(徴発された農民込み)、兵站・随伴者3000名〜6000名、多く見積もって14000名である。

それに馬が入る。

馬だって数千頭規模であるから、人間以上の餌が必要であったはずだ。

 

更に現実の最重要課題は、糞尿処理である。

人間10000人だと、1日で10㌧〜15㌧、馬をかりに3000頭だとしたら1日30㌧以上の糞尿処理が必要となる。

武田軍は、現在の中央自動車道のルートで進んだのだから、兵站が長すぎる。

まして敵陣を数百㎞を突破していくなど自殺行為となる。

結果、上洛は不可能だと分かる。

ゲーム信長の野望で、"信長包囲網"の時代設定で、武田20000万人で、進軍してみればこれが無謀だかが理解できるはずだ。

 

私は、ゴールデンウィーク明けに、初めての九州上陸計画をしている。

題して"四国・九州独りツーリン"である。

旅の計画を立てると、立ち寄る場所や宿泊施設を計算する。

旅に必要な物は、取りあえず財布とスマホであるが、その他に4日分の着替えと雨具であるが、その前段階として、フェリーの予約や宿泊施設の予約までしている。

しかし、これが国境を越えるツーリングやオーストラリアツーリングのように、どう考えてもコンビニもガソリンスタンドも無い地域を走る場合は、食料にテントや寝袋、ガソリン携行缶の用意も必数となるであろう。

日本国内ならば、ガソリンスの心配は先ずしないし、食料の心配もしない。

だが、当時の武田軍団は、全て自前で用意せねばならなかったのだ。

史実として、武田軍は徳川領に入ってから概ね40日〜60日となっている。

人馬合わせての食料は、60日だとざっと3000㌧必要である。

出来たと思ういますか?

実際は現地で略奪をしていたと言うが、そもそも武田が来ると分かった時点で、私が徳川ならば、村々から人々と米を避難させ、後は焼いたであろう。

焦土作戦で、敵には一切食料品を渡さないという作戦である。

恐らくは徳川領で40日以上いたら、武田軍は真面に食事が出来ていなかったと思う。

 

では、何故武田信玄は西に向かったのか?

私は、以下のように考える。

将軍足利義昭から織田信長を討ての命が来ていたから、西側の浅井朝倉と共闘する為に東から織田を囲む作戦であった。

季節は10月に武田は甲府を出発して、三方原の戦いが12月であった。

しかし、現実は朝倉が北陸街道が雪で通行不能に陥る前に兵を引いてしまったために、信長包囲網が崩れたのだ。

信玄は西進の意味が無くなってしまったために、兵を引いて帰国したのであった。

決して、信玄は道中で死亡してからではない。

何故なら、徳川領からの撤退に乱れが無かったからだが、途中の伊那谷の駒場付近で信玄は亡くなったのだ。

 

その後を継いだ武田勝頼は、無能という評価であったが実際は、優れた人物であったようだ。

ただ、信玄が晩節を穢し、周りを敵だらけにしたせいで、最初からピンチであったのだ。

では、勝頼は武田家を潰さぬ方法はあったのか?

 

私の考えは、ワンチャンあったのだ。

それは、家督相続をした後に、織田家に臣下の礼を取ることであった。

しかし、信玄を支えた重臣共は受け入れないであろうから、私ならば馬場信春、山形昌景、高坂昌信らを引き連れて岐阜城に行ったであろう。

岐阜城下の賑わいを見せれば、武田が100年戦っても織田に勝てないことが身に染みたはずだ。

夜は真っ暗な甲府と、夜の世界が賑わっている岐阜城下では、比べものにならいことは、いくら田舎者で無骨者でも理解できたと思う。

織田家の家臣となって、戦国大名から近代大名家への進化を図れば良かったのだ。

 

しかし、史実はあくまで織田と敵対し、三方原に於いて武田は現実を思い知らされたのだ。

時既に遅し。

武田家は終焉の道を辿る以外に道はなかった・・・

 

戦国最強と謳われた、武田家、北条家、今川家、これら三家全て江戸時代を迎えること無く滅んだのだ。

 

武田は戦に勝つ軍団であったが、戦争に勝つ国家ではなかった。

そして、信長公は、戦を変えたのでなく、戦を終わらせる構造を作ったのである。

信玄は戦術家、信長公は戦略家であった。

その時点で両者の運命は決まっていたのだ。