応仁の乱は応仁元年(1467)〜文明9年(1477)まで起こった、日本全国を巻き込んだ最悪な内乱であった。
事の起こりは、河内・紀伊の守護大名であった畠山家の跡目相続からであった。
畠山義就(よしなり)と畠山政長との対立であった。
将軍足利義政は、畠山政長に家督相続を許した。
これに異を唱えたのが、畠山義就であった。
江戸時代ならば、畠山家は確実に改易で義就は切腹か打首もあり得る大罪であった。
何故なら公方様の最低に否を唱える者など、日本国内では存在しなかった。
しかし、前回も書いたが、室町時代の日本人の行動は、欲しいものは武力で手に入れるが是であった。
詰まり、畠山政長は、武力で畠山家の乗っ取りを断行したのだ。
義就には六分一殿こと山名宗全(西軍)が付き、政長には管領細川勝元(東軍)が付いた。
ここに、足利本家の跡目相続問題、斯波家の跡目相続問題が複雑に絡み合ったからもう収拾が付かなくなったのだ。
義政は政治家としては無能であったようで、「早く将軍職を辞して銀閣造園に専念したい〜!!!」であった。
彼の妻は有名な日野富子であったが、将軍を持する決心をしたときには子供はいなかった。
そこで僧であった弟を還俗させて、次期将軍とした。
彼は足利義視であった。
すると、今まで子が出来なかった富子が男子を産んでしまった。
彼は足利義尚であった。
初代尊氏からの悪しきDNAは、兎に角優柔不断なのである。
義政だって、一度決めたのだから、絶対に義視だと言い張れば良かったし、富子が五月蠅ければ、さっさと将軍職を弟に譲って大御所となり銀閣寺建造に集中すれば良かったのだ。
細川勝元率いる東軍は、足利義視を推し、山名宗全率いる西軍は、足利義尚であった。
ほぼ京の都を焼き尽くしたが、東西陣営は今日に駐留し、全国の守護が集まり、直接参加型と間接参加型に分かれた。
間接参加型とは、関東や東北、九州の守護でも、兵や兵站を京に送っていたのだ。
この十年間に及んだ戦いも勝者がいなかったのだ!!!
細川勝元も山名宗全も戦争中に病死していたのだ。
戦は自然消滅したというのだ・・・
結果、将軍は、義政の実子の義尚が9代目となったが、その時御年9歳であった。
応仁の乱後、長享元年(1487)に将軍自ら近江守護六角高頼討伐中に亡くなり、十代目は結局応仁の乱の核心の義政の実弟義視の子義稙が就いた。
皆さん、「???」となりませんか?
十年間日本中を戦に巻き込み、京の都を焼き付くして、結果、これか???
そう、我々は歴史を学んで「???」となるが、我々のご先祖様達も当然「????」となったのだ。
戦国時代は、戦が減り平和な一時出会ったと書いたが、流石の守護大名家は、応仁の乱で疲弊してきた。
そして、「???」なった守護大名の家臣であった守護代や国人衆が反旗を翻し、それぞれが好き勝手に独立していったのだ。
現代なら、自衛官になれば制服や武器弾薬、戦車にヘリコプターまで政府が自前で用意してくれるが、室町時代は自前なのだ。
甲冑から馬まで自分で用意していた。
国人衆とはその土地に土着している武装集団であり、平時は農民としてた人々である。
政府が国民生活其方退けで、権力闘争をしていれば、地方はもう此奴らダメだと中央の言うことを効かずに勝手に動き出しのだ戦国時代だと思えば良い。
守護代が他の守護や守護代、国人衆をまとめ上げて巨大な戦国大名となったのに尼子がある。
尼子家は、元々佐々木導誉の家系であり、家柄的には問題なかったが、守護の京極家を米子から追い出して自らが大名となった。
佐々木導誉の家系は、尼子家、京極家、六角家などがある。
近江の浅井家も有名であるが、浅井家は元々は大名家で無く、国人衆であった。
国人衆が他の国人衆を従えて"国"の形を取れれば、戦国大名と成り得たのだ。
そして、戦国最強と言うことになっている武田信玄の甲斐武田家だが、実は名門でも何でも無かったのだ・・・
次回は甲州武田をちょっと覗こうと思う。
ここまでの流れは、応仁の乱で中世の守護大名家の多くは力を失ったということ。
中世が終わり近代大名の覇者として織田信長公を待つ訳だが、ここで大切なのは、中世大名から先ずは戦国大名へと脱皮出来た大名家は生き残れたし、中世のままの家は淘汰されている事実である。
中国、北九州の覇者であった大内家も、ご多分に漏れずに進化できなかったために滅んでしまった・・・
応仁の乱は、京の都を灰にしたが、中世守護大名家も灰になったのだ。
新しき世の衣吹を感じ取れなかった家は、皆滅んだのであった・・・
言い換えれば、応仁の乱が、否応なく時代を近世に進めたのであった。
つづく