世間では、織田家は桶狭間の奇襲で今川義元を倒してから大きくなったと言われている。
何故織田家が、他の大名家を差し置いて頭一つどころか、体一つ飛び出すことが出来たのか?
先ずは“戦国時代”とは“何ぞや?”を理解せねばならない。
多くの人は、日本中が戦の毎日で、群雄割拠していて、皆が天下を狙っていたと勘違いしている。
戦国時代とは、戦続きであった室町時代で束の間の平和な時代であったと言えるなだ。
室町時代は戦続きであった原因は、一言、足利尊氏の優柔不断と先見の明が無かったことに尽きるが、今回はそこには触れない。
守護大名が大き過ぎ、相続法が惣領総取りであったが、誰を惣領にするかを決めていなかった。
長男総取りは、江戸時代になって争いごとをなくすために決められた法なのだ。
室町時代は、各守護大名家が、惣領を巡って常に内紛勃発状態であった。
極め付けが約10年間の“応仁の乱”であった。
今日の都を焼き尽くしたのだが、灰になったのは街だけでなく、実は中世の価値観であった。
天下の将軍が、戦さを止められず、その将軍が後継問題で応仁の乱を引き起こしたのであり、朝廷は祈ることのみ、守護大名家は、明けても暮れても戦ばかり。
民百姓以上に疲弊したのは、実は守護大名の家臣達であった。
上杉謙信が無能な統治者と私が言うのもここなのだが、これは現代と同じだが、戦争は経済活動なのである。
儲かるから戦争をするのだ。
義の為に戦うは、聞こえは良いが、付き合わされる家臣の身になったら、たまったものではない‼️
全て自腹であった‼️
信長公が堺の衆に、野戦代として銀30000貫を徴収した。
これは、現在の価値で約90億円だそうだが、この90億円は、信長軍10000人の兵が一回戦をする金額だそうだ。
皆さんが家臣なら、殿様から一回の出陣命令がきたら、1000人の兵力で9億円、500人で4億5千万円を自己負担せねばならない。
これを年数度、10年間やれと言われたら「いい加減にしてくれ」となるでしょう?
この「いい加減にしろ‼️」となり、主家を無視したのが戦国時代なのである。
織田家が“ちんまい”とは、映画やTVの演出であって、実際は、超金持ち大名家であった。
それも、今川や北条とちがって、ニコニコ現金をもっていたのだ。
中世の大名家は、米を始めとした農産物で石高が決まり大きさの指針となっていた。
だから、駿河、遠江、三河半分の3カ国を有する今川が、尾張の半分の古渡織田家と勝負にならないと思われている。
確かに領地の広さでは、織田家は小さいが、金持ち度で測れば、今川、北条以上であったと言える。
何故か?
古渡織田家は、那古野湊、熱田湊、津島商業圏、伊勢湾の海上交通を抑えていたのだ。
現金収入がどれだけかお分かりだろう?
この潤沢な資金を背景に、父信秀は、美濃斉藤氏、今川氏と両面戦争を五分以上に戦えたのだ。
なんと、戦の時は、金で傭兵を集めていたと言う。
その父のやり方を、信長公は更に発展させて、日本初、いや世界初の常備軍を持つことになったのだ。
中世の価値観では、戦の前に大名は領民から徴兵して、戦っていたが、お互い歩兵は農民なのだから、春の種蒔き、秋の穫り入れ時は戦が出来ないので、休戦してお互い兵を引くのであったが、近世軍であった織田軍には、種蒔きも収穫も関係なく、一年生365日戦争可能であったのだ。
だから、織田軍は快進撃できたのである。
織田軍には、日本中から兵隊志願者が集まった。
農家の次男、三男以下は家を出るしかなかったから、尚更であった。
その広告塔が、木下藤吉郎であった。
彼は足軽の子であったが、活躍をして城持ち大将ににり羽柴秀吉となる。
これ以上の広告塔がいますか?
宝くじと同じで、世間の何処かには1等前後賞で10億円が当たっている奴がいると思うから宝くじを買い続けるのと同じである。
だから、長尾景虎や武田晴信と戦っても、最終的に織田が勝利するのである。
例えば戦で互いに1000人の戦死者が出た場合、中世の大名家であった、長尾、武田、今川、北条にすれば、領民が亡くなったのだ。
代替が効くものではないし、戦死者が増えれば領内のインフラが立ち行かなくなるが、織田軍は、死ねば補充なのだ。
この差で最終的勝者は決まっていた。
信長公が鉄砲を大量に備えられたのも、現金が豊富に有ったからである。
武田晴信や長尾景虎がどんなに、鉄砲が欲しくても、物々交換では無理でしょう。
更に、堺を始めとした国際都市は、信長公が抑えていた。
実は当時、火薬は輸入に頼っていた。
日本には硫黄は有ったが、硝石がなかった。
だから、他の大名家が鉄砲をそれなりに持っていたとしても、火薬が手に入らなければ単なる鉄の筒である。
やはり信長公のセンスは、子供の頃から貨幣経済を肌で感じ、兵は金で雇っていた父を観たいからであろうと思う。
そんな折に、信秀は病に倒れたが、私は毒を盛られたと思っている。
40半ばの大の大人がいきなり病も不自然であろう。
信秀は信長を呼び「俺は毒を盛られた。今よりお前はうつけのフリをしろ。さもないと殺されるぞ」と言ったに違いない。
斉藤も今川も信秀では勝たないが、まだ年若な信長なら勝てるかもと思ったに違いない。
だから、父信秀の葬儀の席、近隣の大名家の使者いる満座の前で、敢えて父の遺体に向かって、末香を手で掴み投げつける暴挙に出たのだ。
使者達は領地に帰って主君に、織田の跡取りはうつけでござると報告したに違いない。
その間に家中を掌握して備えたのだ。
古今東西、金で国を売る奴らはいるのである。
戦国時代のベストセラー書物は、“孫氏の兵法書”であった。
最高の勝ち方は、“戦わずして勝つ”と書いてある。
有能な殿様を毒殺して、家臣たちを寝返らせるとか、動揺している間に攻めるとか、通常より容易く勝てる方法を皆が模索していたのである。
恐らく、今川家に内通している輩がいたのであろう。
桶狭間の時、信長公は籠城か打って出るかを決めずにフラフラしていた。
そして一騎掛けしてそれに家臣が付いてなら出陣であったので、内通している暇もなかったはずだ。
映画やドラマでは側面から、突いた奇襲となっているが、地の利や天候変化まで熟知した織田軍の敵ではなかった。
今川義元が天下に号令をする為に出発したとなっているが、そろも映画やドラマの演出である。
今川義元如きに天下が平伏す筈がない。
否と言う前に、是非、島根県の米子市郊外にある月山冨田城を訪ねて欲しい。
この城は、山陰地方を治めた尼子常久の居城であるが、その凄さは行った人にしか理解できない。
私はエジプトのギザで大ピラミッドを見上げた感動と同じ思いをしたのだ。
月山冨田城を観た時、今川義元云々が世迷言であることが理解できた。
因みに、尼子氏の子孫が、水戸黄門の助さんである。
今川義元の目的は、京の都でなく知多半島制圧であったことは間違いない。
Google Mapsで桶狭間を見ると、知多半島の付け根である事が分かる。
では何故知多半島なのか?
答えは最初に述べた“戦争は経済活動”である。
この半島を抑えると、那古野湊の権益に食い込む事が出来るからだ。
織田家に、「上がりの半分よこせ」と言うつもりであったのであろう。
否と言われたら、海賊行動で品物を奪う事もできた。
だから、信長公は死守する必要があった。
だから、今川軍を尾張領深くに呼び込み、一気に叩いたのだ。
この辺り特有の風が吹くと一雨来ることは、尾張勢は知っていた。
だから、雨と共に今川軍の先頭に襲いかかった。
史実はは側面からでなく正面突破であったと言う。
しかも雨、しかも舗装路ではないから、ぬかるむ。
何処が固く、何処が泥にハマるかも、織田軍は熟知していたから、戦闘にならなずに、今川軍は撤退したが、後方は前進してくるから、中央はパニック状態であったと言う。
今川義元は、兵法書通り隊列の前よりにいたらしい。
信長公「ここに義元の旗本衆がおる」と指示を出していたと記されている。
大将首を挙げられたら、終わりである。
この時点で足利一門名門今川家の命運は尽きたのだ。
応仁の乱で焼けたのは、京の街だけでなく、中世的価値観も焼けたのだ。
その灰から戦国大名と言う若葉が生まれ、織田信長と言う大木になった。
いつの時代も同じである。
時代の変化に対応できない者は滅び、対応できた者が栄えるのだ。
これが社会変化であり、社会の進化であろ。
つづく