映画『女王蜂』を、覚えていますか?
昭和53年(1978)に公開された金田一耕助シリーズの第四作目である。
私はDVDも含めて十回以上観ている。
そして今日、それもロサンゼルスの自宅で日本から持ってきたDVDを何気なく観ていたら、胸に引っかかる“違和感”にようやく気づいた。
それはクライマックスの謎解きで金田一耕助が皆を集め、「犯人は大道寺銀蔵だ」と告げた瞬間、神尾秀子が「私が犯人です!」と叫び、銃を乱射し、大道寺銀造を撃ち殺す。
そのとき銀造は、こう呟くのだ。
「これでいいんだ……」
この一言に、私は今さらながら強烈な違和感を覚えた。
”大道寺銀造は、本当に犯人なのか?”
冒頭の時計塔で殺された智子の求婚者。
19年前に月琴の里で起こった東小路仁の死。
その他すべての殺人。
これらを実際に行ったのは、神尾秀子であり、実は銀造は誰一人として直接殺してはいないのでは?
それなのに、物語は「銀蔵が犯人」という形で纏めている。
だが、秀子が銀蔵を撃ち殺したとき、銀造はなぜ、あんなにも穏やかに「これでいいんだ……」と言ったのか?
それは、自分は殺していないと知りながら、神尾秀子を殺人鬼にした張本人は自分だと悟った瞬間だったからだ。
これは自己赦免ではなく、自己処刑の言葉 であるったのではないか?
その後に、取ってつけた様なシーンが入るが、私は何度見てもこのシーンに違和感しか感じられないのだが、そのシーンはラストで、赤い毛糸の玉の中から「犯人は銀蔵」と書かれた秀子の告白文が見つかる。
だが、これはそれまで積み上げられてきた心理劇・制度批判の深さを、無理に“普通のミステリー”へ戻す後付けの整理 にどうしても見えてしまう。
本来この映画が描いていたのは、「誰が殺したか」ではなく、「何が人を殺させたのか」だったはずだ。
恐らく、一度出来上がった映画を関係者で観た時に、これでは真犯人が誰なのか?となり、映画館を出た観客が皆「???」なる恐れがあるから、付け足されたのではないかと思う。
十回以上観て、今さら気づく違和感。それを許してくれる映画こそ、本物の名作である。
『女王蜂』は、観る者の人生に合わせて顔を変える映画だと思った。
私はこの映画に今さらながら、心底――感服したの一言である。