去年、朝倉氏の居城であった越前一乗谷に行ったが、そこなガイドと言い合いになった。
それは、朝倉は織田にやり方次第では勝てたといっていたが、私は絶対にそれはないと言った。
多くの人は混同するなが、戦略と戦術である。
戦略とは越前国をどう攻めるかを考えることで、戦術とは個々の戦いである。
例えば、越中における手取川の戦いであるが、これは天正5年(1577)に、織田軍対上杉謙信の戦いであった。
結果織田軍の総崩れで、上杉謙信の大勝であった。
これは戦術面での勝利であったが、戦略面では上杉謙信に勝ち目はなかった。
だから上杉謙信は越後に逃げている。
もし、越中に残っていたら、織田軍の波状攻撃で上杉謙信軍は全滅していただろ。
何故言えるか?
それは織田信長公だけが、天下統一と戦略で動いていたからである。
全ての戦国大名は、中世の守護大名制度の中で動いていたが、織田信長公はそれを壊していたのだ。
それが軍隊でわかる。
上杉謙信も武田信玄も北条氏康も全て戦国大名は、所謂歩兵は農民からの徴兵であった。
無論、無料であるし、領主の権限でこなっていた。
こうなると、戦でもお互いの戦いどころが決まっていて、田植えと稲刈りを避けて農閑期に戦っていた。
しかし、織田軍は、農兵分離をして、兵士には給与として現金支給していたのだ。
何故可能であったか?
それは尾張国が那古野湊を保っていたから、莫大な現金収入があったからである。
だから、大河ドラマ等で尾張の織田は取るに足らない小大名は嘘であり、実は巨大な大名であったのだ。
北は斎藤氏、東の今川氏と二方面で戦っていたのからもお分かりだろう。
織田信長の動く広告塔が羽柴秀吉であった。
農民から大名になっているのを見ると、日本中から溢れだ農家の次男、三男や諸国に溢れた浪人達が尾張を目指したのだ。
だから、上杉謙信がいくら勝っても消耗戦になれば上杉家が滅びるのは火を見るより明らかなのだ。
さて、本日の本題に入るが、織田信長が越前で一向一揆を徹底的に叩き潰したことを、
単なる「宗教弾圧」と語る人は多い。
だが、それは表層の理解にすぎない。
信長が斬り捨てたのは信仰ではない。
宗教が軍事力と政治権力を同時に持つという、
“国家の中に国家がある構造”そのものだった。
■ 越前は「亡霊の巣窟」だった
朝倉家の越前は、
・幕府のために酷使され
・財政は疲弊し
・国内では一向門徒が武装蜂起し
・誰が支配者か分からぬ無政府状態に陥っていた。
そこに信長が現れ、柴田勝家を送り込んで徹底殲滅を行った。
これは虐殺ではない。
国家を再建するための“外科手術”だった。
■ 亡霊は消えなかった
だがこの“亡霊”は完全には消えなかった。
本願寺の人脈、門徒ネットワーク、浪人、反織田勢力。
それらは形を変えて、やがて大坂城に集結する。
■ 大坂城は「第二の石山本願寺」
豊臣秀吉の大坂城は、
・巨大城郭
・寺社勢力の保護
・浪人と門徒の大量流入
・西国大名の結集
あらゆる点で石山本願寺の再来だった。
そこは「豊臣の城」である以前に、国家の統治原理を拒む巨大な宗教国家と化していた。
■ 家康が見ていたもの
徳川家康は三河一向一揆を経験し、信長の戦いも傍らで見てきた。
だから家康にとって大坂城は、「一大名の城」ではなく**“国家を内側から崩壊させる亡霊の巣”**だった。
大坂の陣とは、単なる政権争いではない。
信長が越前で始めた“亡霊祓い”を、家康が完遂した最終章だったのだ。
戦国は終わったのではない。祓われたのだ。
越前の亡霊は、豊臣家という巨大な依代を最後に消えたのである。