今年も残すところ、あと三ヶ月少々となった。
気が付けば夏が過ぎ、いつの間にか秋となっていた……。
よく「人生の時間軸は、生まれてから17歳までと、18歳から80歳ぐらいまでが同じ長さだ」と言われる。
確かに、学生時代(特に小学生)の一年は、今の十年ほどに匹敵する気がする。
だからこそ、大人になると「光陰矢の如し」となるのだろう。
さて、江戸時代に「関八州で一番大きな都市はどこか」と問われれば、誰もが「江戸」と答えるであろう。
実際、当時の江戸は世界最大の都市であった。
では二番目はどこか。
これは御三家・水戸藩の城下町、水戸であったという。
では三番目は?
これは現代からはなかなか想像できまい。
川越や宇都宮も大きな城下町であったが、それらを押さえて第3位に数えられたのが、下総国の銚子であった。
なぜか。
銚子沖は黒潮の流れが速いことで有名であるが、これが物流と深く関わっていたのである。
太平洋沿岸の奥州諸藩からの物資は船で江戸に送られたが、銚子沖をそのまま南下するのは危険であった。
そこで一旦銚子港に入り、荷を川船に積み替えて利根川を遡り、中川などを経て江戸に届けた。
逆に江戸からの物資も、川で銚子まで運び、そこから海船に積み替えて北へ向かったのである。
江戸時代、人々は国後島付近まで漁に出かけ、そこで獲れた鮭や鰊を防腐処理して江戸まで運んでいたというから驚きだ。
野付半島には役所も置かれ、今では信じがたいほどの賑わいを見せていた。
当然ながら、その漁には蝦夷人(のちのアイヌ人)も従事していた。
「アイヌ」という呼称は明治以降であり、江戸時代には蝦夷と呼ばれ、さらに北海道の者を「内蝦夷」、樺太などの者を「外蝦夷」と区別していた。
いわゆるアイヌ人は、13世紀に大陸から渡来した人々と、縄文人の子孫が交わり、今に至るとも言われている。
さて、現代の話に戻れば、北海道から東京に帰る場合、多くの人は苫小牧から大洗までフェリーを利用する。
なぜ東京湾まで直通しないのか?
これもまた銚子沖の潮流と関わっている。
現在は苫小牧~大洗を約19時間で結んでいるが、かつて東京湾まで来ていた航路では24時間前後を要した。
大洗から川崎や有明までさらに5時間以上かかり、常磐道が整備された今となっては、フェリーより陸路の方が早いのである。
日本は古来より閘門を用いていた。
パナマ運河と同じ仕組みで、川の水位を調整し、上下を行き来させる方法である。
江戸の町もまた、徳川家康公が入府された折に、まず運河の整備を重視した。
これにより、もし郷士が反乱すれば、大軍を船で移動させてすぐに鎮圧できた。
また、利根川を江戸湾から現在の位置へと付け替えた。
江戸の土木技術は実に侮れず、水路は蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
当時、江戸にはすでに百万人以上の人口がいたため、陸路のみでの物資輸送は不可能であった。
トラックのない時代、最大の輸送手段は船であったのだ。
酒もまた上方から海路で運ばれた。
「灘の生一本」などが有名であるが、これが江戸に船で送られたのである。
あるとき、江戸で荷下ろしされずに上方へ戻った酒樽を飲んだところ、人々はその旨さに驚いた。
往復の船旅で熟成が進んでいたのである。
これを「戻り酒」と呼び、当然ながら往復の運賃が加わって高値で取引された。
江戸から上方へ送られた品物で有名なのは、佃煮、櫛や簪、煙管、江戸菓子、ガラス工芸品であった。
そして今と変わらぬものが、最先端の髪型や衣装である。
その「粋」を真似るのが、上方の流行となった。
さらに驚くべきは、これらの取引で現金がほとんど動いていなかったことだ。
実際は、為替取引によって決済されていたのである。
明治に入り「文明開化」と言われるが、本当にそうであろうか。
江戸時代はすでに世界最高峰の文化レベルを誇っていた。
教育水準も高く、識字率は八割を超え、当時のイギリスは一割四分程度に過ぎなかった。
どこが文明開化なのか。
電気やガスといった技術こそ明治期に入ったが、江戸が続いていても必ず到来していたに違いない。
田沼意次は歴史的には悪名高いが、実際には開国を構想していた人物である。
彼を登用したのが10代将軍・家治公であった。
家治公には嫡子・家基公があり、名君の器と評されていた。
しかし、数え8歳で早逝してしまった。
「落馬」と伝えられるが、高貴な人物の死因に「落馬」とあれば、暗殺を疑うべきであろう。
家治公は田沼意次を重用し、重商主義を掲げ、諸外国との貿易や蝦夷地開発を進めていた。
これは明治政府が行うことを、すでに一歩先んじて着手していたのである。
だが当然、反発も大きかった。
保守派の大名や儒学者は田沼政治に激しく反対し、その急先鋒が松平定信であった。
ここから不可解な事件が続発する。
天明4年(1784)、江戸城松の大廊下で若年寄・田沼意知(意次の嫡子)が、旗本・佐野政言により暗殺された。
天明6年には将軍世子・家基公がわずか8歳で急逝し、その二ヶ月後には将軍家治公も41歳で薨去した。
将軍の死と同時に田沼意次は罷免され、老中に松平定信が就き、幕政は一転して「寛政の改革」へと進む。
緊縮財政と閉鎖的な政策に戻されてしまったのである。
第11代将軍には御三卿・一橋家から家斉が迎えられた。
田沼意次はもとは貧乏旗本の出であったが、吉宗公の小姓から取り立てられ、家治公に重用され、側用人から老中へと異例の大出世を遂げた。
つまり、家柄ではなく実力で登りつめたのである。
この一点だけでも、既得権益を持つ者たちからの反発は強かったに違いない。
彼は遠江の相良藩主となり五万七千石を領したが、失脚後は居城も破却され、跡形もなく消された。
江戸時代においてすら、新しいことを試みる者は既得権益者の攻撃を受けた。
そして、日本の最高権力者であった将軍でさえ、暗殺の可能性から逃れられなかったのである。
「どんな清らかな水も、よどめば腐る」という。
政府もまた時代と共に入れ替わらねばならない。
歴史とは、常にミステリーである。