先日、北海道MOTOERHOMEの旅から無事に帰ってきた。
北海道の道中記は後ほど語るとするが、最終的に私は苫小牧港から八戸港へシルバーフェリーを利用して戻ってきた。
日曜日の便であった為、苫小牧港から大洗港のさんふらわー号は休便であったので、シルバーフェリーとなった。
八戸港へは4:40に着岸した。
そこで、朝風呂を浴びるために岩手県の水沢へと向かった。
薬師堂温泉は、行きも朝風呂を浴びた私的にはお気に入りの温泉であるので、帰りもここで湯を浴びようと思ったのであった。
湯を浴びた後にMOTOERHOMEに戻ると、ふと前々から行こうと思っていた平安時代の建物を再現したテーマパークの事を思い出し、伊勢守に「この辺りに平安時代の建物が建っているテーマパークがあったな?」と尋ねると、直ぐに"えさし藤原の里"を教えてくれた。
そこでGoogleマップで調べると、薬師堂温泉から13分の距離だと分かった。
そして遂に行ったのだが、これが思った以上に楽しかった。
平安時代の建物が建っていて、NHKの大河ドラマのロケ地となっているのであった。
そう言えば、昨年の大河ドラマの"光る君へ"でも使われていた建物である。
これは政庁で、大和朝廷の"守"が政をした場所であり、日本の国々あったという。
所謂寝殿造りの貴族の館である。
実は、奥州藤原時代は、金色堂にはさやどうは無く、このように雨ざらしになっていた。
「当時の人々はこうやって見ていたのだな〜」と古に思いを寄せるのもいとをかし。
弘安11年(1288)に鎌倉幕府によって最初のさや堂が建てられたという。
現在のさや堂は昭和に建てられた物である。
これは柵であり、この門の外は蝦夷の世界であった。
この頃は、安部一族が奥州を支配していた。
出羽国は清原一族であったが、清原は安部の庶家であるときいたが、この安部と清原は、源氏の奥州征伐の前九年の役、後三年の役で重要なので覚えておく必要がある。
但し、奥州征伐というが、奥州側からすれば侵略であるのだ。
前九年の役は永承5年(1050)から源頼義・義家親子対安部頼良、貞任、宗任親子の対決であったが、ここで話を前九年の役より200年ほど遡るの。
延暦15年797年に朝廷は蝦夷征伐の軍を奥州に派遣した。
坂上田村麻呂が登場するのだが、教科書では初めての征夷大将軍であると書かれていたと思うが、これは嘘である。
初の征夷大将軍は、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)であり、坂上田村麻呂は彼の副官であった。
大伴氏は、その名の通りに大王のお供であったので大伴の姓を下賜されたのであった。
では、何故坂上田村麻呂は征夷大将軍ではなかったのか?というと、彼の家系は天皇殺しの家系であったからだ。
坂上氏は、そもそも百済からの渡来系の貴族であった。
この当時、半島の百済、高句麗、新羅の三国は、日本の衛星国であり、王族は日本の皇族が祖であったし、貴族も元は大和民族であった。
新羅と唐の連合軍によって百済は660年に滅んでいるので、日本に亡命(里帰り)して来たのを渡来系と呼んでいるのだが、元はれっきとした大和民族である。
桓武天皇の父は光仁天皇で、母は百済出身の高野新笠であったので、坂上田村麻呂を重用したという。
早良親王(桓武天皇の弟宮)を粛正したのが、坂上氏であったというのだ。
早良親王を弑逆した後、平城京では有力皇族や貴族の怪死があった為、桓武天皇は祟りから逃れるために平安京に都を移したのであった。
さて、延暦の征伐であるが、弟麻呂は途中で都へ帰って坂上田村麻呂が征夷大将軍に昇進するのだ。
田村麻呂は、多賀城から更に北進した胆沢に城を築き本拠地とした。
この胆沢城跡が、私の好きな薬師堂温泉から直ぐの処にあった。
この地で田村麻呂は宿敵である阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)と相対した。
因みに東北地方や北海道の地名で"アイヌ語"系と言われるのが多数あるが、これはアイヌ人(13世紀に大陸から来た輩)ではなく、蝦夷の言葉なのであり、蝦夷と呼ばれている人々も縄文人の子孫であり、我々と同族である。
詰まり、アイヌ由来の地名とは縄文人の言葉であるといのだ!!!
さて、坂上田村麻呂と阿弖流為が率いる蝦夷の死闘は約5年間続くのだが、この頃に両者ともに妙な友情の様な感情があったという。
"武を知るの者は武"という後に「武士は己を知るもののために死す」に通じる感情であり、最終的には阿弖流為に降伏を勧告して、今後は朝臣として使えるように解いたという。
阿弖流為と母禮はこれを受け入れて、共に都に上るが、ここで朝廷は反逆者としてこの二人を罰してしまったのだ。
田村麻呂は、「これを斬れば東国はなお不穏となろう。むしろ臣たるに置くべきである」と進言していた、河内国で斬首となった。
彼は、阿弖流為と母禮の死を悼み清水寺境内に石碑を建立して弔ったという。
その後、200年間、奥州は混沌としていたが、安部氏が台頭して治めていた。
朝廷としては陸奥守を派遣して、徴税の義務を課していたのみで、自治を認めていた。
詰まり、都から遠いし、冬は寒いから税さえ払えばどうでも良かったのだ!!!
税とは金と馬であったらしい。
ここで東北の豊かさとして縄文時代より現在の青森県にある十三湊(とさみなと)と宮城県の釜石港が物流の拠点であり、大陸との交易も盛んであったという。
南部は名馬の産地であったが、これも十三湊からモンゴル平原から馬を輸入していたという。
青森県にある二戸や八戸の"戸"とは広大な牧場という意味であるという。
我々は大陸との交易というと、博多港や敦賀港を思うが、実は十三湊の方がウラジオストクに近いのである。
安部氏は十三湊と釜石港の支配は、身内を付けていたことでもどれ程重要かが分かる筈だ。
結論から言えば、前九年の役で安部氏は滅びてしまう。
安倍貞任が戦死し、安部の見方となった藤原経清も源頼義に捕らえられ、刃こぼれした刀での斬首となったが、貞任の弟の宗任は捕らえられ都へ護送され、詮議の結果九州の太宰府に流刑となった。
安部氏の跡を相続した清原は一大勢力となったが、源氏の安部氏壊滅作戦には清原氏を抱き込み後方から攻撃させる作戦が功を奏したのだ。
さて、九州に流された安倍宗任だが、彼の子孫が安部晋三元首相なのである。
確かに、安倍首相の顔はどことなく阿弖流為を彷彿されるものがある。
これは阿弖流為の面であるが、彼らが信仰していた神が荒脛巾(アラハバキ)であるが、この荒脛巾神は、ホツマツタヱによると天照君の事であるという。
詰まり、神武天皇以前の神話では、天照君は男子であり、生まれ落ちたときに"とおかみゑひため"という八神に守られていたのである。
"とおかみゑひため"とは、縄文時代の神々の名であり、この神々を祀っているのが八幡神社なのである。
八幡とは末広がりの渡来人である秦氏を祀っているのでは無く、縄文時代よりの古代神を祀っていたのである。
我々日本人の誇りの神々なのである!!!
大和朝廷は古事記編纂の折に、天照君を天照大神(女性)としたのであった。
大和朝廷の支配が遠く及ばなかった奥州には、古代神荒脛巾信仰が残っていたのであった。
因みにホツマツタヱによると、高天原は富士山麓にあったという。
30℃を超える炎天下をも忘れて私は、えさし藤原の里を堪能してしまった。
そして、昼食であったが、平安時代の食材で作った食事も提供できるのであるが、これは要予約出会ったため断念して、平安朝のランチ定食1日5食限定を戴いた。
次回は、平安時代の食事を戴くことにしよう。