戦国時代、戦場で一番槍で手柄を立てて出世していくイメージがある。
信長公が未だ弾正忠であった時台の話である。
尾張国の守護職は斯波氏であった。
斯波氏は名門中の名門で、足利氏の一族であり、「足利から公方が建たないときは、斯波氏より建てよ」と尊氏が言ったという。
斯波家の下が吉良家、その下が今川家の格式であった。
因みに肥後熊本の細川家は、元々は三河の細川郷の出身であり、足利家の家臣であった。
さて、信長公が織田弾正家を相続してから、弟信行が清洲の織田本家を後ろ盾に逆らいだしていたころの話である。
斯波家の家臣に簗田弥次右衛門(やなだやじろうえもん)という男がいた。
彼は見目麗しく、男女共にモテモテであった。
梁田弥次右衛門は、斯波家の家臣と言っても身分が低かったので、一方の武将になるために織田信長を選んだのであった。
そこで、普段出入りしていた清洲本家の家臣那古野弥五郎に目を付けた。
当時16歳で若く家督を継ぎ、兵300を従えてる本家でも有力な人物であった。
そんな少年にいい男のオッサンが近づき朱道(男性同士の・・・)の道に誘い込んだのだ。
そして、すっかり弥次右衛門に惚れてしまった弥五郎は、信長に味方することを約束したのだ。
これを清洲責めの手土産として信長に仕えることになった。
その後、桶狭間の戦いで今川本体の位置を信長公に知らせるという一番手柄を立てたというのである。
桶狭間の戦いについては通説は違っているという。
奇襲を掛けたのではなく、今川軍の正面から襲いかかったというのだ。
桶狭間の地形は織田軍は熟知しており、折からの夕立も気象状況から作戦に加味され、夕立を利用して正面から襲いかかったのだ。
敵襲の報に今川軍は正に蜂の巣を突ついたよう大騒ぎとなり、為す術無く刈り取られたのだ。
では何故刈り取られたのか?
当時は現代と違って道は舗装されていなかったのである。
大雨が降れば当然道は泥化して、馬も役に立たなくなる。
しかし、織田軍はあぜ道を知っていたので、その硬いあぜ道を進軍してきたのである。
当然、今川軍はあぜ道のありかなど知る由も無く、人も馬も泥に足を取られていったのである。
更に信長公は「義元の旗本がここにおる!!!」と兵に命じていたというのである。
義元軍は前進する兵と後退する兵がぶつかり圧死も起こったという。
これは紀元前216年8月2日の、ローマ軍対カルタゴ軍が激突したカンナエの戦いと同じであった。
名将ハンニバル率いるカルタゴ軍は、ローマの2個軍団を包囲殲滅した有名な戦いであった。
それまでの戦いは、重装歩兵が横一列に並び激突していたが、これをハンニバルが重装歩兵の横に騎兵を並べたのであった。
当時のヨーロッパには乗馬の鐙(あぶみ、乗馬の時に足を乗せるやつ)がなかったのである!!!
だから、乗馬をするときは、股で馬の胴を挟む感じであったので、騎馬兵は重装できなかったのだ。
その騎馬兵の機動力を使って、ローマ兵を包囲してその輪を縮めることによって輪の中央の敵兵を圧死させたのだ。
それと同じように、今川軍も圧死者が出ていたという。
その後の弥次右衛門は記録にないと言う・・・
戦国時代、槍働きだけでなく、色気を使って敵を籠絡するのも武将としてはひとかどであったというのだ。
美人なお姉さんが女を使って出世しても問題ないと言うことである。
映画007のジェームズ・ボンドだって、ベッドの上で世界を救っているでしょう?
フジテレビの女子アナ上納事件も、彼女らが納得して自ら行っていたのなら問題はないが、イヤイヤやらせていたとしたらそれは問題なのである。
しかも怪我までさせられていたと言うからビックリである。
仕事ができる奴や女性は、結果を伴う人を指すのである。
何時の時代も、男と女、男と男の性が正解を動かしているのが面白い・・・
正に、歴史はロマンであると思う。