自虐史観国史によると、縄文時代は原始人でり、稲作文化を持った弥生人が渡来して縄文人を駆逐して今の日本人が出来たというのだ。

更に、全ての文明、文化は偏西風の如く西からやって来たというのだだが、最近の研究で全て覆っているのをご存じか?

先ずは、稲作は縄文時代から行われていたし、縄文時代は青銅器文明でもあったというのだ。

更に、原稿人類初のワインも縄文人は嗜んでいたという。

世界最古の土器は縄文土器であるから、当然、ワイン、ビール、そして日本酒も飲んでいたことは想像に難くない。

何故なら、これら醸造酒は偶然に出来上がるからである。

因みに、古代エジプトのビールは、水に麦をぶっ込むだけで自然発酵して作られていたが、ビールに麦わらとうが混在しているためにストローを使って飲んでいたという・・・

 

最近の研究で、弥生人と言われている人々も縄文人も同じであり、単に土器の様式が違うことが分かっている。

では、縄文土器と弥生土器と何が違うのかというと、焼釜の温度だという。

縄文時代の窯の温度は約700℃で弥生時代の窯の温度は1200℃だというが、この差は燃料であり、薪を使っていた縄文時代と炭火を使っていた弥生時代の温度差だという。

詰まり、弥生時代は鉄器が作れたというのだ。

事実今から3000年前の弥生時代の遺跡から鉄のインゴットが出土したから大騒ぎである。

 

そもそも縄文人と弥生人の顔が違うという馬鹿げたことを言っている大馬鹿者言いたい!!!

私の顔は友人等から「お前の顔は美術室の彫刻に似ている」と言われていたから、まあ堀が深いし、身長も182cmである。

では、ノッペリした人がいたとして、彼(彼女)の身長が160cmだとして、何かの災害で埋まり我々が2000後に発掘されたら「令和という時代は色々な民族がいたんだな〜、身長も顔の作りもまったく違う」となるではないか!!!

身長や顔かたちなど個体差なのだ!!!

これを少なくとも数万体のを比べて言うのならまだしも、数体だろう?アホぬかせ!!!である。

こんな馬鹿共が歴史学者と言うからダメなのだ・・・

 

基本、縄文時代の日本は稲作だが、米は当然熱帯の植物だから東北や北海道では厳しかったというから、彼らは狩猟や栗の栽培、漆の栽培で物々交換していた可能性がたかい。

何故なら縄文人は海洋民族であったからだ。

 

今から約7300年前に、九州の現鹿児島県を今の形にした"鬼界アカホヤ大噴火"というとてつもない大火山噴火があった。

これにより九州全域の縄文人は自分の土地に住めなくなり、生き残った人々は船に乗り新天地を求めたという。

ある一団は、揚子江に定住して稲作を文明を起こした。

これが揚子江文明であり、ある一団は、インドへ行った。

更に進んでチグリスユーフラテス河付近まで行き、スメル文明を築いたというのだ。

シュメール文字と神代文字が酷似しているというのだ・・・

因みに、ひらがな、カタカナは漢字から出来たというのも違うらしい。

カタカナの元はカタカムナ文字であるというのだ。

更に、漢字も阿比留文字やカタカムナ文字、神代文字が元だという。

この"あ"や"ア"は"可"から出来たと言うが、無理あると思いませんか?

そもそも"可"は"か"と発音するが"あ"と発音しない。

発音しない字を使いますかね〜?

 

ここには自虐史観の売国奴学者の日本がプンプンしません?

確か、故唐書に"殷も周も倭人の国"の記述があるから、文字を作ったのは倭人でしょう?

 

話を戻すと、古代スメル文明(シュメールの記述はGHQの命令による)はある日突然出来たのだ。

因みに縄文文明はそれより以前に、打製石器時代、磨製石器時代と時代による進化をしている。

だから、"ある日突然"は変なのである。

"ある日突然=文明を持った一団がやって来た"を意味しているのだ。

このスメルから戻った一団が、須佐之男命伝説だという。

 

更に言うと、シルクロード伝説の嘘に話が繋がるのだが、昔は現在のウラジオストクからガンジス川まで船で行けたという。

だから、敦煌も楼蘭も川沿いの都市国家であったのだ。

 

さて、農耕民族対狩猟民族の話の前に食の話を理解しなければならないのだ。

 

日本人の主食は?と問われれば「お米」と答えると思う。

主食であるから、米が主体であり、肉や魚はおかずなのである。

では、欧米人の主食は?と問うと何と答えますか?

パン?実は日本人以外に"主食"を持つ国は無かったというのだ。

だって、小麦からパンやパスタ、麺類が作れるでしょう?と思うでしょう?

 

ここで重要なのは、種一つからどれだけの収穫を得られるかという率がある。

産業革命前までの数値で比べると、米は一粒から20粒〜40粒だが、小麦は5粒しか取れないかったというのだ。

詰まり、小麦が主食になるのは無理があったのである。

だから、肉や魚、ぶっちゃけ口に入る物は何でも食べる文化になるのだ。

支那が良い例で、支那には魔法の調味料"甜麺醤"がある。

しかし、日本には醤油ぐらいであった・・・

この差は?

日本は米が主食で、魚を主に食していたが、新鮮なのである。

鮮度が良いから食材その物の味を味わうために邪魔なソース類が必要なかったのだ。

しかし、支那は動く物全て口に入れた。

蜘蛛、蠍、芋虫、そして人肉である。

味を誤魔化すために強烈なソースが必要であったのだ。

必要は発明の母なのである。

今はやっているキングダムの時代、彼らは戦の場合、人を潰して食していたのだ。

ドン引くでしょう?

事実、食人の記載は三国志にも劉備玄徳が人を食べている事が出てくるから、かの国では当然の常識であったのだ。

因みに魏の曹操が強かったのは、倭国から鉄を輸入していたからであるが、呉は倭国に朝貢に来ていた事を考えると、仁徳天皇時代の日本の外交センスは現在を遥かに凌駕していた!!!

 

主食を持つ倭人と主食を持たないそれ以外がぶつかったのは、3500年前だと思われる。

それは黄河文明が成立した頃で、黄河文明はCaucasianの文明であった。

CaucasianはCaucasoidで、簡単言えば白人の文明であった。

支那人、残念でした〜

ここが我々の歴史とは大きく違うのである。

縄文文明を築いたのは、我々のご先祖様、打製石器時代やそれ以前のナウマン象を狩っていた人々も我々のご先祖様であるが、朝鮮人や支那人の歴史は、古代人は全くの別人であり、別民族であるのだ。

これは南北アメリカ大陸に住む人々も同じで先住民族以外は移民であり、先住民族の文明は自分の祖先と言えないのである。

だから、アメリカ人の多くは自分のDNAから、自分の先祖は何処に住んでいたのかを探るルーツ探しが流行るのである。

 

狩猟民族の黃河文明と農耕民族の揚子江文明(長江文明)とぶつかるのは自明の理であった。

この戦が日本にも飛び火してきたから、所謂弥生時代は戦の時代となり、女性の服装は色物の凝った生地から無職の服へと替わったのだ。

現在だって戦時中に派手な服を着る人はいないでしょう?

 

では、農耕民族と狩猟民族が戦った場合、どちらが強いのか?

黄河文明は石槍か精々青銅器であったが、倭人の作った長江文明は鉄器を持っているが、まあ戦うまでは農耕具に鉄を使っていたと思われる。

何故なら縄文時代の12000年間、遺跡から武器の出土が無かったという・・・

我々のご先祖ならば、戦いになれば鉄で剣を作るのは造作も無いでしょう。

更に、農耕民族は食べ物の備蓄はあるから長期戦も行けるが、狩猟民族は短期決戦型と言える。

 

大和民族の粘り強さは、農耕民族特有のものかもしれない。

 

皆さんも是非探求して欲しい。

探求、勉強を続ける人は、何時までも若々しいというのだ。

 

そして正しい歴史観を取り戻すことが必要なのである。

明治に西洋の文化が入ってきた。

それまで和漢折衷と言われていたが、和洋折衷と言われたが、文化レベルは1000年遅れ欧州の奴らに毒されたのだ・・・

 

豊かさを物で測る西洋と心で測っていた日本、どちらが優れていたか言うまでもないでしょう・・・

 

つづく