8月1日から2泊3日で、北陸方面独りツーリングへ行ってきた。

連日の暑さに辟易していたが、北陸は関東と違って北陸特有の暑さがあるからと友人等に言われたので、暑さ対策は万全とした。

しかし、選んだ機材は何故かのHarleyであった。(HarleyはBMWと違い空冷エンジンが両膝で挟む位置にあるので兎に角熱い!!!)

 

だが、8月1日、何故かの雨模様・・・

朝4時に起きて外を見ると雨がそれなりに降っていた。

ここで、問題は最初からレインギアを着るか、途中出来るかであるが、それなりの雨であった為、Bikeよりレインギアを持ってきて着る準備をした。

天気予報によると東京は6時過ぎにまた雨と言うことで、曇りであった5時台に出発した。

レインギアは締まって、Tシャツにメッシュジャケットの姿での旅立ちであった。

 

環状8号線を南下したが、渋滞まであったので、直ぐに用賀ICにでてそこから東名高速道路で一路琵琶湖畔の長浜ICを目指した。

最初の休憩地であった足柄SAであるが、曇りにもかかわらず富士山のお見送りがあった!!!

 

ナビ様は新東名を示していたが、急ぐ旅でもないので敢えての旧東名を進んだ。

旧東名は沼津を越えて富士川SAを過ぎると海岸線を薩田峠まで走るのだが、この眺めが最高なのである。

江戸時代に歌川広重の描いた東海道53次の薩田峠である。

これが現在!!!

 

さて、話がずれるが、歌川広重の絵にヤバい物を見付けてしまった!!!

これは、13番目の宿場町の原宿であるが、江戸から行って沼津の次の宿である。

旅人の後ろに鳥が二羽。

丹頂鶴である!!!

江戸時代には、北海道の丹頂は日本各地へ越冬していたが、明治なって馬鹿共が皆狩り殺してしまったのだ!!!

現在北海道にいる丹頂は、越冬しなかった14羽の子孫である。

この絵は、我々にバカな行動(開発)を慎めと言っているようで心が痛む・・・

 

旧東名を選んだ理由はもう一つあって、Harleyだと琵琶湖畔の長浜ICまで、満タンでも届かない(BMWGSAだと余裕で届くのだが・・・)ので、途中で給油する必要があるのだが、その給油地を浜名湖ICとしたのだ。

浜名湖ICは、丁度琵琶湖の北東部を橋で渡った位置にあるため、こちらからはICが島にあるように感じるのだ。

この眺めが素敵である。

新東名は山の中を走っているため、面白くないのだが、急ぐ場合や夜間ならば私も通ることにしている、

 

まあ、高速道路のガソリンスタンドだから仕方がないかもしれないが、ハイオクリッター200円超えには驚いた!!!

全て岸田のバカのせいだ!!!

ガソリン税を凍結しろ!!!である。

 

名古屋圏に入ると9時頃になっており、日が照り返し暑くなってきた・・・

名古屋市内へは向かわず岐阜との間の名神高速で関ヶ原を超えるのであるが、その手前の養老PAで冷却ベストを取り出し水に浸けて水分を含ませメッシュジャケットの下に装着した。

頸部にも水を利用するヒンヤリマフラーを巻いた。

走り出すと、冷や〜であった!!!

 

ここは長浜城で、太閤秀吉が未だ木下藤吉郎を名乗っていたことに初めて築城した城である。

城は公園となっているが、道が綺麗であったが、往事は現在の道は水路であった。

現在は荷物はトラックで運ぶが、元亀年間は自動車が無かったので、大量輸送には船が使われていたので理に叶っていたのである。

戦前は東京も東"亰"と書いたのである。

亰は"水の都" の意味があると訊いた。

江戸時代、大量物流の地であった江戸の町は、全国から現代と変わらず荷が集まっていたが、全て船で運ばれていたのだ。

その為の運河も多くあったが、現代は蓋をされ道となっている所も多い・・・

 

本当の長浜城自体は現存しておらず、江戸時代に廃城となり、天守等は彦根城へ移築されているという。

これはコンクリート製の城であり、中は博物館となっている。

藤吉郎が掘ったとされる井戸跡が残っている。

天守最上階から観ているのだが、高層ホテルの向こう側の半島のように見えるところが安土城である。

 

長浜城趾は暑かったが、この暑い最中に高校生等のテニス大会らしく若人の気合いが素晴らしかった。

 

長浜を後に、小谷城を見に行った。

Bikeの先を左に曲がると、この写真の景色である。

この道伝いに山を登ると本丸、京極丸へと行けるらしいが、1500m歩く気がしなかった・・・

焼けた後に、長浜城築城であったから、小谷は捨て置かれたのであった・・・

訊いた話だと、お市の方は、当初は山下の御殿に住んでいたらしいが、姉川の合戦以降、この先の砦住まいとなったという・・・

 

"信長公の真実"は、別の機会に書くつもりであったが、信長公は再三再四、浅井のバカ息子長政に降伏勧告し続けたらしい。

命ばかりか、所領安堵まで確約したのに、気狂いは籠城して徹底抗戦したのだ。

あたら兵士の命を失うなど、将の行いとは思えない。

それを思うと、備中高松城主清水宗治は、たいした武士であった!!!

秀吉に降伏勧告を受け「今降伏すれば、城中の兵士の命を保証する。だが右府様後着座の上は城中の兵士悉く死罪の上、一族郎党皆殺しになるであろう。条件はただ一つ、城主清水宗治独りの切腹」であった。

宗治侯は船で羽柴軍から見えるところまで来て、腹を切ったのだ!!!

その切腹の作法の見事さに、彼の切腹が武士の切腹の手本となったのだ。

余談ではあるが、病弱のために家督を弟に譲った兄も船に同席して「私が病弱のためにお前には迷惑を掛けた。一足先に行きお前を待っている」と言って宗治侯より先に切腹したという。

 

これを思うと、後の元禄の浅野内匠頭長矩が気狂いであった事がお分かりだろう?

公儀としては"乱心"で処理したかったのだ。

乱心ならば、内匠頭一人の切腹で済んだからであったが、精神疾患を患っていた長矩は「喧嘩です」と言ったようだ。

これで赤穂藩改易となったのだ。

大石内蔵助以下四十七士も、恨むならバカ殿を恨めって!!!

公儀の沙汰は「私事で公儀を煩わすとは不届きであるが、殿中での刃を抜いての所業不届き至極」となり吉良はよくぞ耐えたというお褒めの言葉であったが、ここでもし、吉良が自衛のために脇差しを抜いていたら、吉良も切腹となったのだ。

"私事での抜刀は切腹"であるから、上様を守るためとか「余が許す。切り捨てよ」という上様からの明があればOKであった。

 

上様Powerは、想像を絶してた。

歌舞伎役者が足を向けて寝られないのは、遠山左衛門掾景元であるが、彼は時の公方様より「景元は天下一の判官である」というお言葉を貰ったために、天保の改革を断行した老中肝煎水野忠邦の「歌舞伎を禁止しろ」の命に真っ向から背き「庶民から娯楽を奪ってはならない」としたから、現代に歌舞伎が残っているのである。

水野忠邦も町奉行遠山左衛門掾を左遷出来なかったほど上様のお言葉は凄いのである。

まあ、結局、左遷は出来なかったから大目付へ出世させて町奉行職を解いたのだが・・・

 

見るところも無く小谷城を後にした私は、余呉湖へ向かった。

この木は何の木が知ってますか?「この木何の木、気になる木音譜

何と、その昔天女が羽衣を掛けた木だそうだ。

天女は、奥に見える余呉湖で泳いでいたところ、地元の漁師に羽衣を取られ天に戻れなくなったという・・・

確か、天女と漁師は結婚して子供も居たような気がしたが・・・

と言うことは、現在の集落の人間は、天女の血が入っているというかと?

古代宇宙人説からいえば、天女は宇宙人でしょう?

空を飛ぶ器具(羽衣)を来て下りてきたのだから・・・

でも一番驚いたのは、天女の羽衣は海だと思っていたのに、湖だったとは!!!

そして、ランチは余呉の集落の昭和感丸出しのレストランで食べた・・・

 

その後、賤ヶ岳へ向かった。

賤ヶ岳と言えば、羽柴秀吉軍と柴田勝家軍の最後の決戦の地である。

山頂から琵琶湖と余呉湖が見えるという絶景な場所である。

余呉湖の対岸に羽衣の木があるのだが、ここで総勢5万近い軍勢が戦ったのである。

 

結果、日吉が勝ったのだが、それには竹馬の友の又さんが戦わずして兵を引いたことにより親爺の軍勢が総崩れになったのである。

さあ、上の文章を読んで理解出来たのならば、貴方は歴女、歴男である。

日吉は羽柴秀吉、又さんは前田利家、そして親爺は柴田勝家である。

 

この地で歴史を堪能した後、本日の宿泊地である敦賀へ向かった。

暑かった・・・

何でも、敦賀は106年ぶりの最高気温37℃とか言っていた。

と言うことは、106年前も暑かったと言うことである。

地球温暖化が嘘な証拠だ!!!

ホテルから見ると、新幹線の駅もほぼ完成している。

来年の会場を待つだけであるが、ここまで東京から3時間ぐらいであろうか?

敦賀に来るなら冬が良いですよ!!!

冬なら蟹のシーズンであるが、夏は何も無かった・・・

この日自宅から敦賀駅前まで516.5㎞の走行であった。

 

つづく