本日、5月27日は、"小倉百人一首の日"だそうだ。
文歴2年5月27日に、藤原定家が注文主に送ったとされているという。
しかし、どうも小倉百人一首というと藤原定家が有名であるが、これを編纂させた者がいて、その人こそが賞賛されるべきではないの?
「大阪城は誰が造った?」と言う問いに「大工さん」と答えたのは小学生の頃であったが、正にこの通りの事である。
では、小倉百人一首の注文主は?
それは、鎌倉幕府御家人の宇都宮頼綱である。
そう、現在の栃木県の宇都宮辺りを治めていた武士である。
元々は藤原朝臣であり、藤原北家の道兼(兼家の子で道長の兄)が祖であるらしい。
鎌倉時代から活躍して、室町時代も勢力をもっていたが、江戸時代は水戸家家老となり、江戸詰であったという。
傍流に、伊予にも宇都宮氏はいたが、"信長の野望"では弱い〜
更に、小田や大久保も宇都宮のながれだそうだ。
元々は、宇都宮朝綱(源頼朝公より偏諱を戴いている)は、公に「板東一の弓取り」迄言わしめた人物であった。
頼綱も奥州藤原征伐に従軍し、その功績を認められ、北条義時の嫡男の元服の義に招かれたという。
しかし、後に謀反の疑いを掛けられ、剃髪(20代)して仏門に入り事なきを得たという。
京の嵯峨野の小倉山に山荘を作り住んだという。
藤原定家との関係は、頼綱の娘を定家の嫡男為家と結婚させているから、親戚となっていた。
頼綱自身も歌詠みが旨く、宇都宮歌壇を京歌壇や鎌倉歌壇と肩を並べるぐらいにしたという。
その頼綱が、定家に「古今の歌を百首選んでみて」となって出来上がったのが小倉百人一首である。
宇都宮頼綱が居なければ、我々は小倉百人一首を手にすることは無かったし、もし、彼が武人として生を全うしても小倉百人一首は存在しなかった。
謀反の疑われ、剃髪して京に住んだからこそ、素晴らしい物が出来たのだ。
正に、"人間万事塞翁が馬"なのである。
北関東、現栃木県でも宇都宮は、他より文化レベルが高く感じるのは、宇都宮氏の文化貢献の賜だと思う。
小倉百人一首を手に取ったら、武将であった宇都宮頼綱を思いを寄せて欲しい。
彼がいなければ、皆さんが小倉百人一首を手にすることは無かったのだから・・・