聖徳太子は実在したのか?という馬鹿なことを唱えている学者がいる。
調べると、平成11年(1999)に中部大学名誉教授であった大山誠一なる者が、"聖徳太子の誕生"なる本を出し、その中で聖徳太子の存在を明確に否定したのが始まりであったらしい。
彼は、皇太子や摂政という制度が当時はなかったし、聖徳太子は、政治的中心に居なかったとしている。
此奴、頭大丈夫?と私は思うのだが、何故かというと、そもそも"聖徳"という諱は、後世に付けられた名であって、その時代には皇太子、摂政という制度があったのだ。
諡で、"徳・崇"とうの名が送られている方は、非業の死を遂げた暗号であるというのは有名である。
捏造派は、倭国伝によると、遣隋使の情報を元に当時の日本の為政者は随の思想を理解していなかったにも拘わらず、憲法十七条は、多くの支那の古典を引用し、支那の思想や政治のあり方を熟知した文章 から成っている。そのような文章を604年の時点で、いかに天才であろうと、聖徳太子に書けるわけがないし、また、これを官人たちに示したとしても、日常 的に文字を使用していなかった彼らには全く理解できなかったことだろうとしている。
は?となりませんか?
日本は現代においても支那の思想など受け入れていないでしょう?
文字を使っていなければ、どうやって詔を日本中に発布するの?どうやって、法隆寺、それ以前の古墳を造営出来るのか?
日出ずる国の天子、日没する処の天子に・・・を観ても、支那の思想など眼中にないのが分かる筈だ。
古事記・日本書紀があるが、日本書紀は正史として漢文で書いてあるから、支那人でも読めると思うが、古事記は秘密が隠されているから、支那に理解出来な様に書かれているのだ。
そもそも、支那人は王朝が変わる毎に字体や発音が変わるから、現代人支那人は古典が読めないし、理解すら出来ないのだ。
その前に、こういった反論する奴らは、何故"倭国伝"に信憑性があると思うのか?
こういった馬鹿な奴らの陥りがちな罠は、物事をミクロ的に観すぎている点である。
もう少し引いて、マクロ的見地から物事を見れば、自分らの論がアホであることが分かると思うが・・・
随からすれば、日本は大嫌いな国であった筈だ。
そもそも、"天子"という字を使ったことで許せないのに、その天子に上下を付けて、日本の方が上まで言っているが、責めようにも日本は強大な国であるから下手に責められない・・・
そうなれば、悪口書くでしょう?
推古15年(607)に小野妹子を団長に遣隋使を派遣しているが、これって別に支那の卓越した技術を得るより、情報活動的なことをしていたと思うが・・・
さって、支那の方が上のことって何もないし・・・
平城京は唐の都を模した的に書かれているが、その前の藤原京の方が巨大であったし、都市人口だって長安より多かったし・・・
さて、小野妹子は、聖徳太子から例の"日出ずる国"の親書を持って随へ行ったが、それの内容を聴いた皇帝はぶち切れたという・・・
返書を使わされたが、恐らく内容は「お前の母さんでべそ」的な内容であったらしく、確実に戦争になることが分かった妹子は、どうしたでしょう?
何と、朝廷で推古天皇、聖徳太子を前に「返書を紛失しました!!!!」と平伏したという。
まあ、言い訳として、船も難破し痛し、皆命からがらであったし・・・となったが、処刑は覚悟してのこうどうであった。
それを見極めた聖徳太子は、何と小野妹子を2階級特進させたという・・・
前回書いた、家光公の御代の"柳川事件"と同じである。
妹子は戦争を防いだのだ!!!
因みに小野妹子の子孫は、皆さんもご存じ、ジョン・レノンの奥さんのオノヨーコである。
さて、蘇我馬子の蘇我氏は実意は渡来人説があるが、実は、武内宿禰で有名な武内一族である。
日本書紀においては蘇我、古事記においては宗賀と書かれている。
蘇我氏は元々、飾り職を営む一族であり、仏教公伝以降、寺内部の装飾品を一手に引き受け財を成したという。
蘇我馬子は仏教を信じていなかったらしいから驚きである。
詰まり、物部氏との戦いは、どちらが与党になるかの戦いであったというのだ。
今もそうだが、政府の公金が入れば金持ちになれるという今も昔も同じであるという例である!!!
因みに滅ぼされた物部一族は、東北へ逃れたという・・・
その後の源義家公の蝦夷征伐である前九年の役で死闘を演じた安倍氏は物部であった・・・
又、物部には呪術もあったから侮れないのである。
さて、物部氏を滅ぼした立役者と言えば、厩戸皇子こと聖徳太子である。
ここで触れるが、時の如く、聖徳太子は馬小屋で産まれた事になっているが、天皇の皇子が馬小屋で産まれることは絶対に無いのだ!!!