先日、たまたまCATVの映画チャンネルと"八甲田山"を観た。

 

これは、明治35年に、対ロシア戦争を想定して行われた雪中行軍演習の物語であるが、実際に起こった事件を元にした映画である。

帝国陸軍青森5連隊の雪中行軍隊210名中、実に190名が亡くなった八甲田山雪中行軍遭難事故である。

 

物語は、弘前第8師団第4旅団本部の会議から始まる。

もしロシアと開戦したら、ロシア艦隊が陸奥湾に侵入して鉄道、道路網を艦砲射撃にて破壊したら、青森・八戸間が分断されてしまうために、陸中の八甲田山麓を通って八戸に至るルートの確認、確保を目的とし、尚且つ来たる日露戦争時の極寒の地での戦闘にも役立てたいという意味合いで大滝秀治演じる師団参謀からの提案であった。

これを受けて、旅団長友田少将(島田正吾)が、弘前31連隊長児島大佐(丹波哲郎)と青森5連隊長津村中佐(小林桂樹)はそれぞれの部下である徳島大尉(高倉健)と神田大尉(北大路欣也)を連れての会議参加であった。

ここで丹波哲郎が余計な一個を言うのだ。

「お互いに弘前から出発、そちらは青森から出発して、八甲田ですれ違おう」的な事を言ってしまうのだ。

 

徳島隊の舞台は小隊以下の編成で、若い見習士官を中心とした後の旅順侵攻を踏まえての訓練であり、用意万端で出発するのだが、問題は、青森5連隊であった。

これにしゃしゃり出てきたのが大隊長の山田少佐(三國連太郎)である。

わざわざ"随行"という形で、あくまでも観察を名目として、連隊長にも指揮権は神田大尉であることを確認したにも拘わらず、こつが猛吹雪の中で指揮系統を狂わす極悪人として描かれている。

 

私の感想は、青森5連隊壊滅の責任者は、神田大尉、山田少佐、そして津村連隊長の3人であると言える。

先ず、出発式の折に、津村連隊長は挨拶をしたが、その折りに、行軍隊全員の前で、「隊の指揮権は神田大尉である」を明言しなかったことにある。

因みに、戦場では神田大尉の部隊は、山田少佐の命令を聞く必要は無いのだ。

神田大尉の中隊の指揮権は、中隊長である神田大尉のみで、神田大尉が指揮が出来なくなれば、その下の仕官と命令系統がしかりとしているのだ。

だから、軍隊は軍隊であり続けるのである。

 

案の定、山へ入っていくと、山田は直に命令を下すことになり、結果部隊は壊滅したのだ。

神田大尉の失態は、山田が命令した時に「指揮権は私にある。貴方に命令される覚えはない」とキッパリと皆の前で言うべきであった。

更に、神田が無能指揮官なのは、必至の部下の前で「天は我を見放した」と泣き崩れたのだ。

その後、それまで耐えてきた部下は、次々と倒れていったのだ・・・

私なら嘘でも「この方角で帰れるぞ!!! 帰投したら酒1人3合だ!!!」と生きる望みを与え続ける!!!

 

事実、大隊本部付の倉田大尉(加山雄三)は、部下を叱咤激励し続け少ない生還者を出している。

 

何でも気温は-11℃以下で、体感はー20℃であったらいし、更に言えば、青森5連隊は宮城県出身者が多いため、"本当の雪"を知らなかったという。

確かに、スキーで上越行くのと安比高原に行ったのでは、ナイトスキーの寒さが違った覚えがある。

 

我々南関東人は、"東北=雪国"と思っているが、仙台は雪が降らない訊く。

 

カナダにスキーに行ったときに、ツアーガイドを付けて氷河スキーを楽しんだが、傍観していても爪先が冷たくなったのを覚えている。

途中のロッジでホカロンを買って、足裏に貼った記憶がある。

更に注意されたのは、「絶対に耳と鼻は覆って外に出すな」であった。

気が付くと、耳と鼻が、凍傷で取れていることもあるというのだ!!!

 

現在の防寒具でも寒いのに、120年近く昔なのだから、わらの靴とか手は軍手二枚重ねとか、新聞紙を身体に巻く、油紙を巻くという具合であるし、劇中でも土地の百姓に「冬に八甲田に入るのは馬鹿者だけだ」とまで言われる始末である。

実は、神田大尉は事前に雪中行軍のルートを歩いているのだが、未だ雪が降り始めのことであり、地元の百姓に道案内を頼もうとしていたが、当日、例の山田少佐が地元の人を、神田大尉に何を言わずに「金欲しさの田舎者」的な発言をして追い返してしまったのだ。

更に「お前ら田舎者と違って、軍隊には地図とコンパスがある」とそれらを見せてせせら笑ったのだ。

おいおい、俺はお前らの持っている物より良いコンパス持ってるけど、地元の人のガイド以上に信用がおける物など無いこともしっているぞ!!!である。

落ちは、コンパスは余りの寒さで役に立たなかったという、余りにも痛く笑えない結末である・・・

現代だって、-10℃以下の猛吹雪ならば、スマホは使い物にならないはずだ。

 

かくして、前代未聞の死者を出した雪中行軍遭難事故であったが、その後の日露戦争ではこれのことが役に立ったという。

 

このれは生還した後藤房之助伍長位の銅像で、慰霊碑として明治39年7月23日にこの地に建てられた。

劇中は山村伍長(緒形拳)であった。

これは銅像であるが、大東亜戦争中も軍への供出もされずに当時のままとして残っている。

昼間は良いが、決して夜にここへ行ってはならない。

 

後日談だが、遭難事故後に、連隊本部の門番が夜な夜な行進してくる軍靴の音を聞き、皆一応に怖がったという。

その話を聞いた連隊長が夜忍んでいると、確かに大勢の軍人が行進する音が聞こえたという。

連隊長は「貴様等、何しに来たか? 貴様等は既に無くなっておる。 必ず靖国神社へ行けるように計らうから帰れ!!」と一喝したら、その後怪奇現象は収まったという。

 

実は、2年前に、買ったばかりのBMWGSAで北海道ツーリグに行った帰りに、函館〜青森港までフェリーに乗り、そこから自走で東京まで走ったのだが、途中、八甲田山を掠めて奥入瀬渓流へ進路を取った。

途中にこの像の付近を通ったのだが、何故か寄らなかったのだ・・・

まあ、「寄るな」と守護霊が言ったと思っている。

 

その後、全員生還した弘前31連隊の面々は、皆旅順要塞戦で名誉の戦死を遂げられ、御霊は靖国神社に御座すのだが、青森5連隊の死者は、「不名誉な死である」となり靖国神社へ迎えられていないのだ。

 

行き場の無い死者は、現在も八甲田山を行軍し続けているというのだ!!!

 

この地での心霊現象に興味のある方は、YouTube等で検索してみると良い・・・

くれぐれも遊び半分で行かないように願う。