今年は、NHK大河ドラマの影響もあり、徳川家康公人気だと思うし、事実先日、あるYouTubeでも徳川対北条をやっていた。
先ず、本能寺の変だから、私は家康公黒幕説を指示している。
その理由は、イエズス会のルイス・フロイスがローマへ送った書状に、「ロード信長は、三河キングを殺そうとしている」との内容である。
フロイスの書状は先ず間違いない!!!
何故なら、派遣された国をスパイすることが彼らイエズス会の第一の任務であったからである。
更に、信長公御最期の直ぐ後に、弥助がイエズス会へ行って証言している。
弥助とは、宣教師の奴隷として日本に連れてこられた黒人であり、彼を見た信長公は、盥を持ってこさせて、彼を盥の中に入れて身体を洗わせたが、黒いのが落ちなかったのが、気に入り家臣として召し抱えた。
詰まり、奴隷でなくなった。
公は弥助の踊りがいたく気に入り、足の速さも、ジャンプの高さも驚いたと記録されている。
弥助は、森乱丸と共に公の近くに使えていたのだ。
その彼が、公の最期の言葉をイエズス会に伝えている。
「明智光秀是非もなし。今思えば、これを招いたのは余自身の不覚であった」とある。
これを皆間違って解釈しているのだ。
先ず、明智光秀と公とは、皆が羨むほど親密であったという。
詰まり、仲違いなどしていなかったという・・・
私は、昔から不思議に思っていたのだが、明智光秀の居城は坂本城であり、現在の琵琶湖の西岸で琵琶湖大橋と大津の間ぐらいに位置いた。
ここから、12000人とも15000人とも言われる軍勢を行軍させて、羽柴秀吉の元に行くはずであった。
現在の国道1号線を西進したと思うし、本来そのまま尼崎を目指して山陰道を進む予定であったと思われる。
更に、私は軍勢が夜に通過するのであれば、京都御府内を通過するはずがなく、今の京都駅より南側の9条辺りを進軍するはずだと思う。
大津から京へ行くには1国の他には、栗田口を通る道もあるが、これは京の都の中央へ繋がるので、先ずこのコースは無いと思う。
しかし、恐らくこれを来たのだ・・・
もし、「敵は本能寺にあり!!!」と言って、途中から進軍コースを変えたとなると、いくらなんでも門番や関所番が気が付くはずだ。
10人、20人ならまだしも、12000人以上の人間が、完全武装で通ればそれなりに騒音であるし、誰にも気付かれずに本能寺に到着できるはずがない!!!
信忠も軍勢を率いて、妙覚寺(現在の二条城付近)に滞在していた。
当時の寺は現在の寺と違って、プチ要塞であった!!!
信長公の本能寺から妙覚寺まで約750mである。
公や織田家当主が宿泊していたら、家臣達も周りを警護しているに決まっている!!!
警護をスルーして本能寺まで来ている。
更に奇妙なのは、家康公の京都滞在だが、本能寺の変の時、堺に居たことになっているがこれが怪しいのだ・・・
信長公と会わないはずがないでしょう?
入れ違いで出て行くとは、彼らの間柄から考えると不自然と言えるし、現代に於いても上司(社長・会長クラス)がくるなら挨拶してから行でしょう?
更に、神君公の宿泊場は、本能寺(現在の本能寺と別)から数百メートルで、妙覚寺、神君公宿舎は、正三角形となっている。
正に、徳川家康を暗殺の網は完成していたのである。
信長公最大の誤算は、惟任日向守光秀が神君公側であったことである。
家康を討つはずの軍が、まさか自分を討つとは思っていなかった。
これが"油断"であったから、最初に、「これを招いたのは、余自らの不覚であった」の台詞が成り立つである。
恐らく、日向守が本能寺、妙覚寺を襲っている最中に、神君公一行は今日を後にしたのであろう。
更に、山岡荘八の"小説"徳川家康で、伊賀越えは大変であったと言うが、神君公の家臣の日記によると、物見遊山であったと書かれているし、穴山梅雪は小説では伊賀山中で襲われて殺されているが、日記によると、浜松に着いた後に海を眺めていた梅雪を神君公が後ろから刺し殺したとなっている。
神君公が京都赴いたとき、供は徳川家の重臣達のみであったから、外様の穴山は口封じであったと推測できるし、それが当然の帰結だと思う。
惟任光秀はどうなったか?というと、私は天海僧正説が正しいと思う。
日光東照宮からいろは坂を登った地帯は、"明智平"である!!!
東照宮にも桔梗が至る所に使われているのは何故?
更に言えば、明智光秀の生年月日が諸説あるのだが、永正13年(1516)〜天文9年(1540)の間で定まっていないのだ。
神君公は天文11年(1543)生まれであるから、光秀の生まれが天文9年だと、辻褄が合ってしまう・・・
信長公は天文3年(1534)だから、光秀より年上となり、公と光秀の関係性の記述からすると天文9年説が有力となる。
"人が羨むほどの仲"が20歳近く年上の男性よりは6つ下の若者の方がしっくりするでしょう?
織田家の内紛時期に、徳川は甲州に侵入した北条55000を向か討っている。
甲州が北条の手に落ちれば、徳川の領地は北条に包み込まれている状態になる。
これを阻止することは国防上やらねばならないことであるが、ここで問題は、徳川勢は精々8000であることである。
ここで、真田昌幸であるが、彼の"奇策"で運良く勝った事になっているが、おいおい、待ってくれ!!!
戦国時代のベストセラーの書は、"孫子の兵法書"であり、神君公も愛読しており、それを実践していたでしょう?
孫子の兵法書には、虚実編に書かれているが、この虚実編とは"無勢で多勢に勝つ方法"が記されている。
地図を見れば明らかだが、甲州は中央が甲府盆地であるが、そこに至るまでは険しい山に山に囲まれている。
ここを55000人を展開することは不可能であるから、山道で敵を襲うのである。
また、伏兵を忍ばせておいて、常に攻撃を加え続ける。
敵(北条)は、眠ることすら出来なくなり、確実に兵力が削がれ行ったのであった。
最終的に、退路も断たれ孤立した北条軍は和議を申し込んできたのだ。
その和議の内容は、甲州、信州は徳川、関東平野は北条であった。
これは正に事実上の徳川方の大勝であったのだ。
更に、神君公の娘と北条の御曹司との婚姻もなったのだ。
現代にも孫子の兵法をビジネスに活かすという書籍が後を絶たないが、それを読んで確実に実行できる人と「読んだよ」で終わる人とがいる。
実践できる人は浮き上がるが、ただ読んだという人は・・・
しかし、"読んだ"という人の方が99.9%なのだ。
それを実行できる人の希である。
戦国時代も実践できた者が天下を取ったのである!!!