皆さんもご存じ"フランダースの犬"であるが、実際の原作はイギリス人作家ウィーダが1872年に発行した本であるが、モデルとなった少女アロアは、なんと村の金持ち所でなく、公爵令嬢であった!!!
父親はオラニエ公ウィレムとう現在の王家にも繋がっている名家である。
「なるほど、コゼツのオヤジは実は、大貴族だからこそ平民の貧乏人ネロと遊ぶことを反対していたのだ・・・」と妙に納得しています。
多くの人が知っている"フランダースの犬"は、"日本アニメーション"が製作した昭和50年にフジテレビ系で放送されたアニメであるとおもうが、原作は60ページぐらいの短編小説であった為、大まかなあらすじ以外は和製であるといえる。
日本に初めてフランダースの犬が和訳されたのは、明治41年に日高善一訳版であり、ネロが清、パトラッシュが斑、アロアは綾子であったという・・・
ネロ、アロア、パトラッシュという名が出てきたのは、昭和4年の菊池寛訳版からであるという。
さて、アニメフランダースの犬は、泣く回が大きく二回あると思う。
44話目でネロのお祖父さんが亡くなるシーンであるし、もう1話は、ご存じ52話目のネロとパトラッシュの死である。
アントワープの大聖堂にあるルーベンスの絵を観ることが出来て、ネロは幸せであった。
「マリア様、ありがとうございます。これだけで僕はもう何にもいりません」は、涙無くしては観ることが出来ない。
更に、パトラッシュがネロの傍らに寄り添ったときに「ぼくは一番見たかったルーベンスの2枚の絵を見たんだよ。だから、ぼくは今すごく幸せなんだよ」
更に、ネロはパトラッシュの背中をさすりながら「バクも疲れたんだ・・・。 何だか眠いんだ・・・」とパトラッシュとネロは一緒に横たわると、天から天子達が舞い降り、彼らを天国へ連れて行ったのだ。
これを小学生のころに観た私は、内容を消化できずに結果「フランダースの犬は詰まらない」と封印した。
愚かな文化しか持たないアメリカ人は、「負け犬の死」と言って嫌うのである。
だから「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの。恋だったらいつでも出来るけど・・・」とジーナに言われたしまうのだ。
因みに、紅の豚でアメリカ人のカーチスのモデルは、第40代合衆国大統領のロナル・ドレーガンであるという。
でも、ネロは果たして負け犬であろうか?
最近思うのであるが、これは私自身が還暦間近だからかもしれないが、"死"に対する感じ方が若い頃と違っている思う。
若い頃は、Bikeや車で暴走して、カーブに命を掛けることをしていた。
「何時死んだって良いんだよ」的な思いがあったが、健康な若者にとって"死"は甘美な単語であり、何処か絵空事のような気がしていて、まさか自分が死ぬとは夢にも思わなかったと思うし、事実、思っていなかった。
還暦間近になると、死が現実を帯びている。
その今、フランダースの犬を思うと、ネロの死は無駄でもなくまして負け犬の死でもない。
完全燃焼したのである。
絵のコンクールに全てを掛け、おとなの事情で落選してしまい、大好きだったお祖父さんも先に行った。
ネロは10歳であるが、家計を支え、仕事を支えてきたから、日本の甘やかされているゆとり10歳とは比べものにならいほど大人であった筈だ。
日本人だって、戦国時代、江戸時代の10歳は今のガキより大人であった。
武術が言っていたのだが、戦国の武術と現代の武道は明らかに差がある。
現代の武道には"次"はあるが、戦国の武術に次はない。
剣道でも、柔道でも決勝戦で負けて、その悔しさをバネに日本一を目指すことが出来るが、戦国では"負け=死"である。
だから、今の武道家の域は、戦国時代は15歳までに取得させていたという。
15歳元服で初陣を飾るのが多かったが、早ければ、11歳で初陣もあった。
後見人が付いていていたが、倒した敵の首を切り落としたのは11歳の子供であったのだ。
それに比べると、現代の劣化振りが嘆かわしいと思う・・・
今朝、ネットで最終回を観てみた。
泣けたのだが、そこでハッと気が付いたのだ。
ネロは幸せであると・・・
我が家にはミニチュアピンシャーのチャッピー様がいるのだが、彼女は平成21年(2009)年生まれて、今年で14歳になる。
あと数年で永久の別れが来る。
まあ、普通に行けば、私が最期よりもチャッピーの最期の方が早い・・・
耐えられるであろうか?
何処へ行くも一緒で、彼女と旅をする為にMOTORHOMEも買ったし、我が家で私が自室で仕事をしていると、鳴きながら家中探し回っている。
若いときは、自力で階段を上れたのだが、歳と共に階段を上れなくなっている・・・
それでも、チャッピーは私が居ないと探すという。
時にはトイレの戸を叩いて、「中に入れろ」と言ってくるし、私が外出(車かバイク)の時は、門を見つめてソファーで待っているという。
ネロはパトラッシュが大好きで、パトラッシュもネロのことが大好きなのだ。
もし、ネロが絵画コンテストで一位であり、芸術学院に通い始めれば、当然パトラッシュとお別れであるし、そのまま牛乳配達を続けていても、パトラッシュは既に老齢である為、お別れが来たのである。
しかし、大聖堂でルーベンスの絵を観て、パトラッシュとネロは寄り添うように、お互いを庇いながら横たわっていた。
そして、一緒に天に召されたのである。
天子が道先案内をしていたのだから、当然ネロとパトラッシュは、天国へ行ったのである。
そして、2人は永遠に一緒なのである!!!!
誰も、ネロとパトラッシュを引き離すことはない。
これが、ハッピーでなくて何なの???である。
人間は、生まれてるときも独り、死ぬる時も独りなのである。
正に、フランダースの犬は日本人の魂を揺さぶる作品であり、欧米では理解できない"バッドエンド"とされる所以である。
昔、殿様が亡くなると、可愛がられていた家臣は殉死をした。
「死んだ後も殿様にお使いしたい」の一心であったと思う。
殉死には賛否両論あって、実際に御公儀も"殉死禁止令"を出しているし、若殿も殉死禁止を徹底させていたが、それでもする者はしたのだ。
"殉死"を題材にした小説や映画は、森鴎外著の"阿部一族"をご覧じろ。
殉死という風習があった日本だからこそ、フランダースの犬のラストは涙が止まらないのであると思う。
そして、彼らの死は、悲劇でなく、ハッピーエンドなのだ。
だって、大好きなもの同士が、一緒に天国へ行って永遠に一緒なのであるから・・・