先日、地図を見ていたら、あるツーリングコースが浮かんだ。

 

皆さんは、旅を企画する場合、何を基準にしますか?

料理、景色それとも温泉?

旅には基本があって、電車行く、車で行く、Bikeで行は移動手段となる。

そして、誰と行か?であるが、私はツーリングならば、基本独りツーリングが好きである。

 

企画した旅は、"甲州武田家終焉の地を巡る旅"で、諏訪勝頼が立てさせた未完の城新府城から、自害した天目山、そして墓のある景徳院である。

 

兵法では、"戦略的に負けたら戦術的の勝利では挽回できない"とある。

この点、武田軍は信玄坊主の頃から織田軍に負けていたと言える。

長篠の戦いで武田騎馬軍が全滅した時点で、武田の滅亡は決まっており、その後のいざこざは悪あがきでしかない。

ここで武田に出来たことは、負けない算段であった。

詰まり、織田の旗下に下ることであり、こうすれば家は残ったのだ・・・

 

諏訪勝頼は、武田勝頼とも書いている書も多が、私は武田姓は名乗っていなかったと思う。

武田姓を名乗るのには"信"の字が入っていない。

勝頼の子供は、信勝といって、信玄坊主の孫であり、この子が武田家家督相続をして、父勝頼は後見人であったという。

 

天目山に付き従った家臣に、武田家精鋭の家臣はおらず、諏訪家の家臣が多かったという・・・

 

新府城築城折り、織田軍が高遠城を囲んだという情報が入るが、高遠城も堅固な山城だから、落ちるまでは最低でも30日は掛かるとみられていて居たが、実際は1日で陥落してしまったようだ・・・

勝頼は手勢数千を連れて高遠城へ向かったが、フルボコにされ、新府城に戻れたのは1000人ほどであったという・・・

 

家臣の小山田信茂の案に乗り、甲州から都留へ逃れようと笹目峠まで来たときに、小山田の裏切りに気が付いた。

最期は、天目山に登り自刃したのであるが、実は武田家は室町時代に四代公方足利義持の怒りを買い、武田信満が同じ天目山で自害し、武田家は断絶していたのだ!!!!

 

その後、許され家督相続を武田信重が継いだのだが、鎌倉公方足利持氏が推した武田有直と揉めに揉めてから甲斐は内紛時代と突入したという。

それを平定したのは、信玄の父信虎であった・・・

 

武田家に取って意味有りの山が天目山である!!!

 

ここには温泉もあるので、来春、Bikeが乗れる季節になったら訪ねる計画を立てている。

 

今年もあと一週間を残すのみとなった。

来年も良い年にしたいものである!!!