先日、たまたま何かで、戦国武将で嫌いな武将ランキングというのを観たのだが、なんと今川義元であった。

理由は、圧倒的な兵力差で油断して負けたからと書かれていた。

 

私は、別に今川好きではないが、これでは死後約460年近く経っているのに誤解されているのは可愛そうである。

これは、後世に田楽桶狭間の合戦をより盛り上げるために作られた創作である。

 

では、そもそも今川義元は、上洛して天下に号令しようとしていたが、それにしては今川家は「ちっこいわ〜」なのである。

今川家は、駿河国、遠江国、三河国の半分が支配下であったのだが、山陰地方の尼子氏は8カ国の太守であるが、今川の傘下に入ると思いますか?

更に、目前の邪魔者は叩き潰すにしては、25000名の軍勢では「ちっこいわ〜」である。

仮に名古屋、清洲を倒したとして、織田の残党はどうするの?

完全支配出来なければ、最悪京の都に袋詰めだし、持っていった兵糧が尽きたらどうするの?

これも不確かなのだが、25000名とも50000名とも言われている今川勢だが、私の解釈は戦闘の兵だけが25000名で、その他小者まで入れて50000名だと思っている。

小者とは、武将の世話をしたり、荷駄を運ぶ人足であるが、彼らは戦闘は出来ないが、居なければ食事の支度が出来ないが、一人前の食事もトイレもするから大変なのだ。

 

上洛と言えば、長尾景虎も2回ぐらいしていたはずだが、この時代の上洛とは京都旅行であり、天子様の拝謁によくす栄誉があるのだが、それはそれで金が掛かるのだ。

これで、長尾領内では一揆や反乱が増えたという・・・

 

では、今川義元は名古屋くんだりまで何をしに軍勢を率いて行ったのか???である。

それを知るには、岡崎にある小豆坂合戦を知る必要がある。

詳しくは端折るが、小豆坂合戦は織田軍が勝ち越しているし、この戦いは岡崎の所有であった。

 

今川は何故岡崎が欲しかったのか?となる。

だから、歴史を知るには地政学を知らねばならないのだ!!!

今川家からすれば、東は北条が居るから容易にでられないし、北は武田がいたが出るメリットが0であった。

要するに、今川家は富が欲しかったのだ。

 

戦国時代、戦は武士の趣味で行っているのではない。

戦は経済活動であり、今も昔も金のために戦争をするのだ。

「家臣領民の暮らしを良くしたい」であり、これをやった殿様が名君の誉れを得ることが出来たのだ。

 

先日、織田家と今川家とでは、財力に差があると書いたが、石高で言えば今川上だが、現金収入は織田の足元にも及ばないかった。

それが港湾利権であった。

現在で考えて、静岡県最大の港と言えば清水港と思うが、清水港と名古屋港を比べたら、横綱と褌担ぎ位の差があるでしょう?

因みに伊豆半島は、北条氏の支配下であった。

 

今川義元の桶狭間への進軍からみて、今川は名古屋港の利益の一部が欲しかったのだと思う。

その為には鳴海城を奪って完全支配し、織田家の干渉を排除し知多半島を領土化するのが、進軍の目的であった筈だ。

その後、海賊行為をして、止めて欲しければ「毎年売上げの40%を寄こせ」出会ったと思う。

 

その作戦を織田方からすれば、正反対に捕らえることができた。

小豆坂合戦も飽きたし、ちんまい戦いでは埒があかないから、今回は完膚無きまでにぶっ叩く積もりであったのだ。

 

ここで、現代人の我々が戦国時代のもう一つの誤解であるが、戦国時代は江戸時代と比べると"忠誠心"は低かったのだ。

だから、神君公は武士に朱子学を勉強させ、主従関係の忠義を徹底させたのだ。

それまで、バカとのならば「裏切り御免」の世界で、江戸時代の女性のように三行半を叩き付けて離婚するのと同じほど、家来が主人を見限っていた時代であった。

織田信秀は、家臣により毒を盛られて倒れたのだ。

それは、信秀が秀でた武将であったから、近隣大名からすれば邪魔な存在であったのだ。

それで、信秀は、信長を枕元呼び「俺は毒を盛られたようだ。お前もこのままでは殺されるから、バカな振りをしろ」と言ったという。

そこから、"大田分け"を演じたのである。

だから、今川が迫っても籠城か討ち死にか、打って出るかを直前まで家臣に教えなかったのだ。

 

更に、桶狭間の戦い前に、この地方特有の天気の変わりも知っていた織田軍は、雨が降ることも計算していたという。

現在と違って、舗装されていないから、一度雨が降れば、地面は抜かるになるのだが、織田軍は地の利を活があり、何処が道で何処がぬかるんでいるかを承知していたのだ。

実際の桶狭間の戦いは、織田軍は今川軍の正面から一斉に攻撃を開始し、パニックになった今川の前衛部隊は総崩れで後方へ逃げたのだが、そこに後方から前進してきた自軍とぶつかり更に全員パニックとなったという。

そして、信長公は冷静に「義元の旗本中が居る!!!ここを攻撃せよ」と命令したという。

今川勢の大半は泥に足を取られ身動きがろくに出来なかったという・・・

 

こうして、永禄3年5月19日、42歳の生涯を終えた。

信長公の作戦、今川勢を"完膚なきまでに叩く"作戦は大成功であった。

 

東京都の杉並区に観泉寺という立派なお寺がある。

江戸時代、現在の杉並区付近は今川家の所領であった。

杉並区今川町まであるぐらいである。

このお寺が、行政の中心であったようだ。

ここには、歴代の今川家当主の墓もある。

義元殿の墓もあった・・・

 

義元殿は、決して暗愚な御館様でなく、家臣領民のために戦ったのだが、相手が悪かっただけであった・・・

 

つづく