戦国時代、子沢山な女性として有名なのは、前田利家の妻まつであるが、彼女は数歳12歳で利家に嫁ぐと、直ぐに子供を産んでいるのだが、何と現在で言えば11歳11ヶ月での出産であったという・・・

その後、11歳から32歳までの21年間で2男9女計11人を産んだと言うが、私は眉唾であると思う。

この当時、脇腹の子も正妻の子として育てられていたから、それである可能性が高い。

更に、何故32歳から子供が出来ていない?である。

32歳であれば、古今女盛りであろう・・・

 

浅井三姉妹の母と言えば、お市の方だが、このお市の方も良く信長公の妹とされているが、徳川時代の公文書には信長公の従兄妹と明記されて、側室であったという。

二人の間の子が、御茶々なのである。

 

そもそも日本には欧州と違い処女信仰が無かったので、子供が産める身体である事の証明付き(既に子供の産んでいる)の方が珍重されていたのだ。

更に付け足せば、浅井家にしてみれば、信長公の寵妃とその子供まである意味人質に取れたことになったのである。

だから、お市の方の"次女"の名前が"初姫"なのである。

これを不思議に思わないのは、歴史のセンスがないと言える。

浅井家の正史にも茶々の出産には触れておらず、初、御江代には書かれているという。

 

この時代、従兄妹同士の結婚は珍しくないし、前田利家とおまつも従兄妹同士であった。

更に言えば、異母兄妹の結婚もあったようだが、同母の兄妹の結婚はNGであったようだ。

 

後の太閤秀吉が、お初、御江代はさっさと嫁がせたが、御茶々を最後まで残し懸想した理由も分かるはずだ。

主君信長の子供だからこそ、彼女を跪かせたかったのであるが、跪いたのはどうやら太閤であったようである・・・

 

さて、戦国時代、戦国武将を殺していた物があった!!!

それが、梅毒であった!!!

梅毒は、コロンブスが新大陸から欧州へ持ち帰った土産として有名だが、その後約20年で地球の反対側の日本へ上陸している。

永正9年(1512)には、梅毒が三条西実隆の文献に初めて記されている。

 

更に、太閤殿下恩顧の大名、加藤清正、浅野幸長、前田利長らが次々と梅毒でこの世を去ったという・・・

戦で亡くなる以上に、梅毒で武将が亡くなっていくって微妙な感じである。

 

太閤殿下は、若き日に"猿"と呼ばれていたと、大河ドラマ秀吉やその他の時代劇でも有名であるが、別に秀吉の顔が猿に似ていたわけでもなく、そもそもこの時代"猿"とは悪口でなく褒め言葉であったのだ。

猿のように"すばしっこい奴"と言う意味で、信長公が馬で遠乗りをするとお付きの衆は馬を駆け足で追ったので合う。

秀吉は、信長公に遅れることなく付いて行けたことから、猿と呼ばれたらしいが、実際に信長公からは猿とは呼ばれずに、何と"鼠禿げ"と呼ばれていたのだ。

 

私のブログの愛読者であれば、"戦国時代"とは戦ばかりしていた時代でなく、守護大名達が大規模戦に疲れはてて、力を失い大規模な戦役がなくなった時代であることはお分かりだと思う。

 

本日、大河ドラマ秀吉を観始めたのだが、これも戦国時代を理解していない人々によって作られたことが分かる内容である。

 

先ずは、織田家が異様に小さな大名として描かれているが、織田家は周辺のどの大名家より強大であった。

大河ドラマは領地の石高で国力を表していたが、石高以上に織田家には現金収入が半端なかったのだ。

何と言っても名古屋港を押さえていることが一番デカい!!!

現金収入が有ったからこそ、鉄砲を500丁買ったり、兵を金で雇うという考えが出来たのだ。

当時の、今川、武田、斉藤の殿様に「足軽は金で雇えば良い」と言ったら皆一笑に付したはずだ。

だって、足軽は領民から無料で徴発できたからであった。

現金雇用兵の利点は、戦死しても直ぐに補充が効く点であったし、何より1年365日戦えることであった。

通常は、農民を使っていたから、農繁期は戦ができなかったし、それは誰もが同じであったから暗黙のルールであった。

信長の強さは、この暗黙のルールを無視することが出来たことであった。

 

更に、家臣団を城下に住まわせる事によって、商人を街に集めたことも忘れてはならない。

 

戦国時代を勝ち抜くには、他家でやっていないことをやり、家臣団の梅毒とうの感染症へ如何に注意を注げたか?かもしれない。