清水宗治という武人をご存じか?
羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際の、城主であった男である。
清水宗治は、天文6年(1537)に現在の岡山県総社市に生まれた。
備中国賀陽郡清水村であることから、地方の田舎豪族であるが、その身分から城主まで上り詰めた武士といえる。
秀吉軍は毛利征伐のために、備中に進軍したが、難攻不落の備中高松城がそれを阻んだ。
軍司黒田官兵衛の作戦で、近隣の百姓に土嚢を作らせ川をせき止め、高松城を島としてしまったという。
因みに何処ぞの政府と違って、秀吉はこれから水攻めで田畑を破壊してしまうから、土嚢を高く買い取ることで生活保障をしたのだ。
今で言えば、土を10㎏の袋に詰めて持ってくれば1万円で買い取るといえわれれば、皆さんも頑張って、最低でも100個は作るでしょう?
人の欲も絡んだ見事な策略と言える。
城中には毛利方の将兵約5000名が、飢えていた・・・
恐らく、秀吉(本来秀吉の敬称は殿下であるが、ここは関白になる前なのであえて付けない)の行った、鳥取城兵糧攻めの地獄を高松城中も知っていたと思う。
鳥取城中の将兵は、最期は人間の死肉を食べていたという・・・
そんな折、「日向守惟任光秀殿、御謀反!!!上様、非業の御最期」という一報が入った。
余談だが、"明智光秀殿御謀反"は誤りである。
光秀は、上様自ら惟任(これとう、日向では名家という)姓を与えて、日向守に任官したので、正しくは惟任光秀である。
ここで言う上様、右府様(右大臣)とは織田信長公である。
そこで、秀吉軍は、光秀討伐のために京へ攻め上りたいので、一計を案じた。
「右府様は数日で御着陣、そうなれば、城内全て皆殺しであるが、今開城するなら城主清水宗治の切腹で5000人は助ける」といった内容の使者を送る。
比叡山を丸裸に焼いた右府様ならば、"城中皆殺し"更に言えば、彼らの家族、親類縁者も連座で皆殺しが過ったはずだ。
その時の清水宗治の心中いかばかりか?
自分の命と引き換えに、皆の命が救われるとなれば、死にたくなくても嫌とは言えない・・・
結果、羽柴軍の申し出を受けて彼は切腹しだのだが、切腹は皆が見えるように湖上(湖のようになっていた)に舟で漕ぎ出し、その上で切腹することになっていた。
城中は兵糧攻めのために食糧が尽きていたので、最期に酒と肴を羽柴軍は差し入れ、皆と別れの杯を交わした。
共は兄の清水宗知で、宗知は身体が弱く、「弟に全てを背負わせた、せめて冥土へは一緒に行かん」と言ったという・・・
宗治は、兄宗知の唄で一差し舞ったという。
その舞の見事さに羽柴軍から惜しみない拍手喝采が送られたという。
"浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して"
これが、宗治の辞世の詠である。
更に、その切腹の作法が秀吉の心を打ったので、後の切腹の作法は清水宗治の切腹のしかたとなった。
後に、太閤殿下は大阪城で、小早川隆景(宗治の主筋)と会ったときに、宗治の思い出話となったという。
その折り、太閤は「惜しい男を亡くしたものだ」と隆景に言ったという・・・
さて、私の信長の野望の1シーンである。
大阪城での軍議
「上様、是非とも先人はこの信虎に!!!」
と諸侯を前に一歩も譲らぬ武田信虎である。
「オヤジは言いだしたらきかぬな。では、オヤジ、備中高松城攻めの先人を申しつける」
「二陣は、元康、三陣は義元、四陣は義清に任せる。本陣は余と副将晴信と景虎である」
御上の命に諸侯等は平伏した。
「留守居は氏康とする」
「御意」
パラレルワールドの世界で、戦国武将は生き続けている。
この時代、われれわの先祖は、確かに戦っていたのだ。
戦いに勝ったから、今現在我々は生まれて来られたのだ。
戦国時代は決して夢物語ではなく、私たちの血のつながりの向側の話なのである。
戦国武将を勉強することは即ち、自分の過去と向き合うことであると思う。