今回の山陰地方ツーリングの最重要目的は、島根県にある月山富田城訪問である。

 

月山富田城は、戦国時代山陰地方の勇の尼子氏の本拠地であった。

その城は、巨大で山一つが城という形容になるが、私の感想はエジプトのギザの大ピラミッドを見たときのようであった。

 

関東の今川氏は駿河、遠江、三河の3カ国の太守だし、武田氏は甲斐と信濃の2カ国であるが、尼子氏は出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備前、備中の8ヵ国の太守である。

時代物では今川家は巨大で、「尾張の織田など一ひねりで、京の都に行って全国に下知する」と言っていたが、尼子に比べれば象と人間ほどの差があった・・・

事実は、織田家は巨大であり、美濃の斎藤や今川より実は勢力が強かったのである。

時代小説はあくまでフィクッションで、織田がちんまい方が話が盛り上がるから恐らく小名家としたのであろう・・・

だって、織田信秀侯は、斉藤氏と今川氏両面で戦っていたのであるから、その大きさもお分かりであろう。

だって、現在だって日本有数の名古屋港を持っていて、更に熱田神宮まで持っていたのであるから、軍資金には事欠かなかったのだ。

その富を背景に、信長公は現代では当たり前の兵を金で雇うことを日本で初めて行えたのである。

この金で兵を雇うは、もの凄い革命的発想であった。

通常、兵は領民を徴発して行うから、領主からすれば無料であったが、戦死者がでるとそのまま国力へ直結してしまう。

詰まり、国内の人的インフラに支障をきたさない程度にしか兵を集められないのである。

一番重要な、田植えと稲刈りの時期は戦をしないのが暗黙の合意であったが、信長公の兵は金で雇われているから、戦死者が何人出ようが、直ぐに補充が効いたのである。

だから、越中の魚津での上杉謙信と戦で第一次は上杉軍の勝ちであったが、結果的には上杉は織田には勝てないというのはこの一点である。

大切な領民が死ぬのか、何処の馬の骨皮ならない代替の効く傭兵と最終的にどちらが勝つかは歴史が証明している。

詰まり、どんなに上杉謙信が強くても所詮、"蟻と戦うカマキリ"なのである。

更に付け加えれば、羽柴秀吉という生きた広告の存在も大きかったと思う。

手柄次第では大名になれる!!!のであった。

 

さて、話を尼子に戻すと、尼子氏は元は、鎌倉時代の佐々木道誉を祖としている。

佐々木氏が本家で、分家として有名なのは六角氏、京極氏であり、尼子氏は京極氏から別れた家である。

佐々木道誉と足利尊氏は、馬が合い共に鎌倉幕府を倒して室町幕府を創ったのであった。

分家の京極氏は出雲国の守護として統治に赴き、その時に守護代として尼子も従った。

 

室町時代と戦国時だの違いはというと、守護大名が巨大な戦で疲弊して大人しくなった、又は力を失って平和になった時代を戦国時代と呼んでいるのである。

兎に角、室町時代の守護大名の戦いはすさまじい!!!

例えれば、関東地方と東海地方が戦うとか、四国対山陽地方といった具合に、大名家の規模が大きい。

更に跡目相続問題で内乱になった。

その最大の戦いが、"応仁の乱"であった。

だから、江戸時代の大名家は、最大でも加賀の100万石なのである。

安土桃山時代の神君公の所領は250万石だった・・・

実際はそれ以上であった!!!

江戸時代は、正に温故知新で、歴史を勉強していたといえる。

 

出雲国もご多分に漏れず、主家の京極氏が疲弊していたので、家臣筋の尼子氏が京極を追い出して戦国大名家として独立したと言える。

 

その拠点としたのが、月山富田城であった。

電線が邪魔だが、あの丘の上は城中であった。

正に、山一つが強大な城となっていた!!!

この城は頑張って復元していると思ったのが、山の木々を切り倒していた点だ。

歴史的に山城の場合、山の木々は全て切り倒していたのである。

だって、草木が生い茂っていたら、敵がそれらに隠れて近づいてくるでしょう?

 

これは本丸側から二の丸を撮っているのだが、現在は、階段があって二の丸から一度下がって本丸に上がってくるのだが、往事では、間違いなくこれは空堀で、本丸と二の丸間には橋が架かっていたはずで、万が一敵に二の丸が落とされたら、橋を焼いて本丸を孤立させ敵を迎え撃つようになっている。

毛利軍に攻めらての尼子義久の最期が目に浮かんでいるようであった。

義久の父、尼子晴久は切れ者であったというが、47歳の時にこの月山富田城で急死した。

この頃、尼子一門衆の新宮党を粛正したり、毛利と石見銀山を掛けての戦の最中であった。

さて、ここで、国史の大鉄則であるが、調子よく当主が死ぬであろうか?

私は、毛利元就の策略で一服盛られたと見ている。

新宮党の粛正も毛利方の陰謀であったと思っている。

 

これって、この後の出来事に似ていると思いませんか?

それは、織田信秀侯の急死と"関白秀次の謀反"である。

織田信秀侯は切れ者で、戦も強かったというが、42歳で病死した。

その後に信長の奇行始まった。

親父殿に呼ばれ「俺は何者かに毒を盛られた。お前のやられる恐れがあるから、家中を掌握するまではたわけの振りをしろ」と言われたというのだ。

だから、桶狭間の戦いも籠城、討ち死にとうとうの家臣の意見をのらりくらりと躱していたのである。

今川方との内通者がいると思っていたのだ。

こう考えると、信長公の行動が理解できてくるでしょう?

 

又関白秀次は出来た人であったと言うし、もし関白が存命ならば、徳川時代は無かった筈だ・・・

詰まり、陰謀なのだ。

 

この辺りは"徳川家康の陰謀"で書くつもりである。

 

この尼子晴久は、私的には友人だと思っている。

何故なら"信長の野望"で良く親友になるし、助けて貰ったし・・・

不思議と他人のような気がしないのだ。

月山富田城に"伝尼子晴久の墓"があったが、まあ違うと思う・・・

菩提寺に行くでしょう?

この月山富田城は、不思議と友人宅へ遊びに来たような錯覚さえ覚えた。

 

500年ぐらい前には、この月山富田城が、山陰地方の中心であった。

多くの人々で、この地はごった返していたと思うが、今は見る影もない。

正に"城破れて山河あり"なのだ。

 

後にこの地を拝領した松平家は、月山富田城では町が発展しないと、松江に城を築いたのだ。

山城の時代が過ぎ、天下太平には平城で、城を中心にした町作りとなっていった。

 

つづく