11月1日に、フェリーで徳島に上陸したが、これが凄い雨で、徳島城と琴平にある銭形砂絵を観光する予定であった。
しかし、激しい雨のため断念して一路宿を取ってある今治に向かった。
四国上部を真横に貫いている高速道路をひた走ったが、初めて走る道は勝手が分からないから、スピードも控えめに速い車をペースメーカーにしてその後を突いていく戦法を採った。
四国は、ほぼ岩手県と同じ面積であし、岩手県は何度か東北自動車道で縦に縦断したこともあるのだが、広かった・・・という記憶が蘇ってくる。
Googleマップだと"これくらい"の距離も、いざ実際に走ってみると大変な距離であるのだ!!!
結局、13時半頃に徳島を出発して約3時間後の14時半頃に今治のホテルに着いた。
"信長の野望"では、能登村上水軍の領地であるし、ゲームでは何度も通ったことがあるのだが、実際には初めてであるし、ゲーム中は西条市内の"鷲ノ森城"から琴平方面に進軍したこともあるのだが、ゲームの1ターンは一月であるので、行軍の一月分を現在は高速道路で3時間・・・長い訳だと考えると何故か笑えた・・・
夜は町のレストランへ行ったのだが、今治の町は繁華街の筈が、暗い!!!のである。
夜の街の明るさに慣れていると、その暗さには恐怖すら覚えるのである・・・
これが、江戸時代なら参勤交代で、領地に帰ってきた主従は、さぞかし「江戸に戻りたい・・・」と泣いたはずだ。
21世紀に現代ですら、私はそう思ったくらいであるのだから・・・
翌日、ホテルの朝食は7時からであったので、6時頃にホテルを出て今治城へ向かった。
天気は黒っぽい雲が覆っていたのだが、これから向かうしまなみ海道方向は、青空が広がっていた。
今治城は、藤堂高虎侯が築城した綺麗なお城であった。
天守閣の横に神社があったのだが、そこが本丸であったと思える。
本丸は殿様は住まないというより住めないのである。
日本全国の城の本丸へ入れるのは、公方様一人だけであるからである。
因みに"将軍様"とは呼ばなかったし、もし呼んだら無礼打ちで首が飛んだという。
通常は、公方様、上様、御本丸様、徳宗と呼ばれていたという。
得宗は、鎌倉時代の北条家のトップの人を指し、鎌倉時代に確か4人だけであった筈だ。
鎌倉殿の13人ではないが、北条家を調べるとこれはこれで面白いのだ。
鎌倉幕府(幕府とは明治時代に作られた言葉だが、ここではそう呼称する)の頂点は"執権"である。
執権の権力はもの凄かった・・・
だって、天皇を島流しにするは、跡目を決めはとすさまじさがお分かりであろう?
しかし、その執権も北条家の中の序列はトップではない。
得宗家で執権なら、無敵であるが、単なる執権ではお飾りである。
北条家の一門会議なるもには、なんと"長老"(北条家の年配者)までいて、得宗を中心とした合議制で決めていた。
現在を鑑みれば、納得でしょう?
日本の最高権力役職(臣民として)は、内閣総理大臣であるが、その総理を操っている力があるでしょう?
故安倍さんは「三人」と言っていた。
話を戻すと、何かで公方様が今治に来られたら、今治城の本丸に入るのである。
大名家は、道中町の本陣や脇本陣(格式が高い宿屋)であるが、公方様はその地の城の本丸であった。
さて、今治城では藤堂高虎侯祭みたいのをやっていた。
侯の所縁の土地と連携らしいが、私からすると「恥ずかしいから止めろ!!!」である。
今治藩は、確かに藤堂高虎侯から始めっているのだが、慶長13年(1608)に神君公に可愛がられていた高虎侯は、ルンルンして伊勢一国をもらい伊賀上野城を作って行っちゃったでしょう?
その後は、伊予松山藩の分家的な扱いで松平家が、善政を引いたから今も豊かなのでしょう?
8年くらいの殿様よりも200年城の殿様に感謝するべきでないの?
だから、田舎者と言われるのである!!!
これって、群馬県の沼田も同じ・・・
やたらと六文銭の旗があるのだが、沼田は江戸初期は真田家の領地であったが、これが分家で、本家(松代藩)と仲が悪く、張り合うために(本家の方が石高が高い)、重税で領民をいたぶったのだ!!!
領民は御公儀に直訴までしている。
そうやって領民の団結で真田を追い出したにも拘わらず、今更真田って、これは笑い話以外のなにものでない!!!
今時の詰まらないお笑い芸人より笑えませんか?
これが、"歴史を知らない"からこそ出来る馬鹿話なのだ。
この流れなら、関東人は平将門祭を盛大にしなければならいのと同じである。
将門侯の御霊を町に招いたのは神君公であるし、それが神田明神であり、神田祭の主神である!!!
今野南関東を豊かにしてくれたのは、神君公である。
それまでは、埼玉県川口市まで海であった。
だから"川口"なのである。
それを埋め立てて、更に利根川が江戸湾に流れていたら水害がヤバいとなり、今の位置である千葉県と茨城県の境に移したのだ!!!
信じられますか?
利根川を移動させたって!!!
話を今治に戻すと、本当に素敵なお城である。
二の丸御殿跡は広場になっていて、お年寄りが朝から集まって皆で体操をしていた!!!
ここはお堀の船着き場出会ったと思われる。
江戸時代の物流の中心は船であった。
トラックが無かった時代は、大量に荷を運ぶのは船しかなかったのだ。
太古から日本は"閘門"(二つの扉で川の水の水位を変えて航行する方法でパナマ運河と同じ)を使っていたいたという。
町の中も用水路が張り巡らされていたのである。
お城のお堀の魚と言えば、鯉となるが、何と今治城のお堀の魚は鯛であった!!!
この堀は海と通じているため、海水なのである。
正に、今治城は日本の宝だと言える。
城散歩から帰ってくると、丁度朝食の時間であった。
8時にホテルをチェックアウトしてから、しまなみ海道を通って、大和ミュージアムと宮島へ向かった。
途中、大島で高速道路を降りて、村上水軍博物館へ向かったのだが、まあ、それなりであった。
良く村上水軍等を海賊と書くが、私に言わせると"海族"であり、海の民なのである。
別に、パイレーツ・オブ・カリビアンのように、船を襲うようなことは無かった筈だ。
博物館では、毛利軍と共に村上水軍は、織田信長公の艦隊をぶち破ったと勇ましく言っていたが、その後、公の作った鉄鋼船団(世界初の鉄板船)にフルボコにされた事には触れていなかった・・・
まあ、太閤秀吉の時代、八幡船はインド等で、イギリスの船をフルボコにしているし、大和民族は縄文文明から海の民であったのだ。
世界の各地から縄文土器が発見されているというのだ!!!
大和ミュージアムは有名出るから端折るとして、次回は宮島でのお話をすることにしよう。
つづく