来週、念願の山陰地方ツーリングに行くことにした。
当初は、東京九州フェリーで新門司港まで行き、門司で一泊してから、翌日、下関→角島→楊貴妃の墓→萩→秋吉台→岩国の予定であった。
実は、2週間前に行く予定であったが、フェリーの個室が取れずに断念した。
訊く所によると、最近"ぶらりフェリー旅"が流行っているらしく、車やバイクでなしに徒歩でフェリーに乗るというらしい・・・
船旅の流行だというから、「取れなかったんじゃないの?」とバイク乗り友人の談であった。
しかし、このルートで行くと、岩国で一泊した後、翌日に宮島→大和ミュージアム→しまなみ海道で村上水軍博物館→道後温泉となるのだが、ここでしまなみ海道を往復するという少々無駄な工程となるのである。
すると、バイク乗り猛者は、自走して四国へ渡りしまなみ海道を経て、大和ミュージアムはどう?とのアドバイスがあった。
調べてみると、東京の自宅から西条市(愛媛県)まで約760㎞である・・・
19、20歳ならともかく、この歳になると、無理は・・・
すると、Harley仲間のSちゃんは、同じくHarley仲間のH氏に騙されて約800㎞を独り旅したことを思い出した・・・
これは、平成21年(2009)に実際に起こった恐怖の出来事であった・・・
私は、Harleyに乗り始めたのは、平成18年(2006)のバレンタインデーからであった・・・
チョコレートでなくBikeを貰った的な・・・
これから、2台目に乗り換えたのが、平成21年10月であった。
H氏から「今年で最後だからハーレーフェスティバルIN長崎(10月31〜11月1日)に行こう」と誘われた。
新車で長崎も良いかもと思い、参加を決めた。
出発の日(10月30日)、私は所用があったので、皆とは別行動で出発であった。
先発隊は、この日壇ノ浦SA内の宿泊施設泊であったが、私は下関内のホテルに独りで行くようであった・・・
しかし、高速道路だけで900㎞の旅を舐めていた・・・
10時に高速に乗れば19時までには着くと高をくくっていたら、とんでもなかった・・・
更に、浜名湖SAで休息を取ると、エンジン下部のネジにオイルの滲みが・・・
途中休憩と給油をしていたら、下関ICを出たのが翌日0時5分であったのだが、結果それが大正解で、当時の自民党が推進した高速道路乗り放題1000円に引っ掛かったのだ・・・
御殿場ICから下関ICまで通行料1800円であった!!!
翌日、先発隊は角島へ向かっており、私は独りで高級河豚料理を食べようと息巻いていた。
ホテルをチェックアウトして、駐車場に向かうと、なにやらBikeの下が濡れていた・・・
オイルが噴き出していたのであった・・・
下関から長崎までざっと240㎞、この吹き出し方だと到着は無理・・・更に、長崎が終着点では無く、東京へ帰らねばならないのであった・・・
下関→長崎→東京の往復1200㎞の走行は不可能であった。
ハーレー店に電話して、事の次第を告げ、ハーレー下関店までは何とか自走して、そこから新幹線で帰宅した・・・
「俺は新幹線で帰るから、後はお前らで何とかしろ」と担当Mに電話で告げて、H氏には電話でオイル漏れの件を伝えた・・・
実は、HOG(ハーレーオナーナズグループ)の保険で、目的地までの交通費、宿泊費、そこからの帰りの交通費も全て出たのであるが、もう新幹線で帰る!!!しか頭になかった・・・
数ヶ月後に怖ろしい話をH氏とSちゃんから訊いたのだ・・・
長崎に到着して夜は良かったが、夜中から大雨で、翌日も前が見えないほどの雨であったそうだ。
予定では、阿蘇山外輪を誘拐して秋吉台から山口市内で泊まり、翌日日本海側を通り玉造温泉で泊、翌日解散であった。
私は、玉造温泉はNGだと言っていた。
何故なら、H氏はこの後、実家の京都へ向かうというのだが、東京組は800㎞を走らねばならず、私は少なくとも城崎温泉辺りまで来ないと辛いと主張していた。
一連の事は、未だに酒のネタで大笑いの種である!!!
大雨のため、阿蘇山外輪は諦め、山口へ向かったそうだ。
ホテルに入ると雨は止んだらしい・・・
翌日、日本海側へでたら、嵐のような風で、波が国道へ掛かっていたという・・・
更に翌日、玉造温泉から帰ろうとしたら外は雪!!!
このホラー映画の様な出来事を訊いて「ああ、オイル漏れは、行くなと言う天啓であった・・・、私は救われた」と確信した。
実は、このブログを書いていて、私の勘違いに気が付いてしまったのだ・・・
H氏とSちゃんが山陰地方を走ったのを11月中旬かと思っていたら、11月の頭であった・・・
今回の私の旅と同じ辺り・・・
不安が!!!
今回の予定では、徳島でフェリーを降りて、宇部まで一気に高速移動で、その日は宇部泊まりで、翌日しまなみ海道から宮島を経て岩国、そして次の日は、秋吉だから角島を経て萩泊まりであるのだが、ここまで来たら、下関河豚リベンジも考えている。
山陰地方を走るのは11月4日〜5日であるのだが、ここで根性の無い私の性格が出てしまった・・・
旅とは行き当たりばったりであり、もし山陰地方が雪ならば、山陽地方にシフトすれば良いし、九州へ行って鹿児島の志布志からフェリーで大阪という手もあったのだが、ダメな私は5日までの宿屋を予約してしまったのだ・・・
ダメダメな私・・・
問題は、6日以降であるが、5日は米子泊まりで有り、月山富田城をしっとりと見学予定である。
月山富田城は、山陰地方の勇であった尼子氏が滅亡した城である。
尼子氏は現在の鳥取県上がりから島根まで勢力を伸ばしていた戦国大名である。
元々は太平記にも出てくる足利尊氏の盟友であった佐々木道誉の子孫である。
京極、六角も同じく佐々木道誉の血筋である。
尼子は京極家の一門であった。
同じ源氏ではあるが、足利は清和源氏、佐々木道誉は宇田源氏である。
我々の言う有名な源氏とは、清和天皇の皇子から別れた血筋で、宇田天皇から別れた血筋が佐々木家である。
この他に有名なのは、村上天皇から別れた村上源氏であるが、この一門の多くは、悉く藤原一族に殺された・・・
歴史のツボであるが、何故天皇は自分の多くの皇子を臣籍降下させて源氏にしたのか?
平安時代、朝廷は藤原一門によって牛耳られていた。
聖武天皇の后が藤原不比等の娘であり、初の皇族以外の皇后となった・・・
こよれり、100年以上藤原一門の"外戚祖父"政権によって日本は壊滅的被害を被った・・・
奴らは荘園という脱税システムを編み出し、本来朝廷に入っている税収をかすめ取り、京の都に数多の餓死者の死骸が散乱していてもお構いなしに、自らの死を恐れ、生きながら極楽浄土を観たいと宇治の平等院を建てた・・・
極楽浄土へ行きたいなら、大御宝である飢えている庶民を救え!!!であるが、あれ??これって現行政府と同じか???
藤原一門の権力基盤は、"外祖父"であった。
これに対して反旗を翻したのが(身分が違うのだが・・・)村上天皇を始めとした天皇で、自ら皇子を臣籍降下させ、彼らの娘と天皇を婚姻させ、村上源氏を"外祖父"に使用としたのだが、藤原氏の反撃に遭い、敢えなく玉砕であった・・・
そして、究極の方法が皇族によって編み出された!!!
これが、"院政"である!!!
天皇に即位し、暫くしてから譲位して自らを法皇となり、藤原を駆逐したのだ。
流石に元天皇に対して弓引く輩は、今も昔もいないのだ!!!
そうやって、自らの皇子を次々に天皇しては、譲位を繰り返し、法皇を沢山製造した。
その法皇のトップを"治天の君"と呼び、これが有名な後白河法皇や後鳥羽上皇である。
天皇を操るのは外戚で無く、元天皇である直径の祖父であれば、日本中が平伏さないはずがない・・・
ここを押さえて、大河ドラマ等を観ると更に理解できて面白いはずである。
話を戻すと、尼子氏は出雲国の守護代の肩書きで、出雲へ下ったが、後に京極をたたき出し、自ら守護を名乗ったのである。
これは織田信長公と同じで、信長公の本家は尾張国の守護代であったが、この守護代を殺し、守護であった斯波氏を追い出している。
戦国時代は下剋上というが、臣下が主人を殺すことは本当に希であった。
斎藤道三も主家の土岐を国外へ追放していたし、信長公も斯波氏を国外追放している、更には足利公方義昭も追放した。
歴史のツボ2
尼子氏滅亡というが、実際には大名家でなくなったと言う意味で、その血筋は生きている。
事実、滅ばした毛利家に仕官したり、水戸家に仕官した者をいるし、水戸黄門の佐々木助之進は、この血筋では無いかという設定もある。
私の母親の友人に長宗我部さんもいるし、その長宗我部自体が、斑鳩時代の蘇我氏の血筋であるという・・・
その一族にも主流派と反主流派がいるのである。
余談が多すぎたが、今回の旅のメインイベントは、月山富田城で尼子氏に思いを馳せることである。
実は、ゲームの"信長の野望"でこの辺りでよく戦をしているので、実際に観てみたいという好奇心もある。
まあ、行き当たりばったりは出来なかったが、最終宿泊地の米子の後は決まっていない!!!
ここら辺から、行き当たりばったりが出来るかどうかが、鍵である!!!
頑張るぞ!!!!