先日、北陸地方の旅から帰ってきた・

旅と言っても4泊6日である。

 

普通なら4泊5日であるのだが、MOTORHOMEの旅ではもう一日増えるのが常である。

何故ならば、最終日(土曜日であった)は、高速道路が混むのが分かっているので、途中のSAで夜中まで過ごしているからである。

 

出発は10月11日火曜日の昼過ぎで、調布ICより中央自動車道に載り、"諏訪湖SA"でこの日は泊まった。

何故諏訪湖SAかというと、そこにはハイウェイ温泉があるからである。

次の日は朝早くから移動を開始して、松本ICから国道158号線で平湯温泉に向かって、そこで朝風呂に入った。

その後、飛騨高山を抜け、九頭竜湖を経て朝倉氏の最後の地であった一乗谷遺跡を堪能したのだが、考古学会っておバカが多いことが改めて頷けた。

 

数年前に、日光東照宮に行ったおり、有名な眠り猫を観ると地元の解説者が解説していた。

眠り猫の裏側は竹藪に遊ぶ雀であるのだが、「猫は平和で居眠りして雀を捕まえずに雀は楽しんでいる」と解説していた。

これが馬鹿馬鹿しい話である。

「それは違うよ」と言ってやるとそいつは食い下がり、終いには「雀は平和の象徴」と言った・・・

雀が平和の象徴って訊いたことが無い・・・

この構図を江戸時代の人々が見れば、一回の町人でも意味が分かったのだ。

竹に雀といえば、伊達家、上杉家の家紋である。

詰まり、猫は公儀で、雀は伊達家を指している。

「調子に乗ったら殺すぞ」を表しているのだが、逆に言えば、「公儀の都合で伊達、上杉を潰すことは無いよ」というメッセージとも取れる。

 

400年前にこれを観た伊達政宗侯は、ウンコちびったでろうことは想像できる。

まあ、政宗侯は家光公から「伊達の爺」と呼ばれ慕われていたというし、家光公宣下の折有名な逸話があり、大広間に外様大名を集めて言われた。

「諸侯の尽力で、祖父神君公、父大御所は天下人となれたが、余は生まれながら天下人、今後は諸侯等を進化として扱う。異存あれば即刻国に立ち返り戦を仕掛けてこい。この家光、お相手いたす」であるが、これに伊達の爺が「上様、畏れながらその儀に及ばず。上様に仇なす者は、政宗が蹴散らしてご覧に入れましょう」と来た!!!

諸侯は、平伏すしか無かったというが、先ずは資金力で外様は相手にならない・・・

上様は、地球一の金持ちであったからである!!!

スペイン、ハプスブルク、ルイ、チューダーが束になっても叶わないほどの金持ちであった!!!

因みに、公儀と外様の関係だが、別に敵対していた訳でも無く、秀忠公と諸侯は実は仲が良かったのだ。

特に太閤殿下子飼いの大名達とは仲が良かったという。

お忍びでよく諸侯の屋敷に遊びに行っては、酒宴を開いていたという。

秀忠公が若かりし頃は、人質として太閤殿下の元で育てられていたが、当然、若者は若者同士で仲良くなり、夜な夜な色町へ繰り出していたことも想像に苦しくはない。

それがバレて太閤殿下に木刀で追いかけ回されたこともあったであろう・・・

だからこそ、歳を重ねると、酒を酌み交わしての昔話に花が咲いていたのであろう・・・

殿中では上下に別れても、酒宴では無礼講であったはずだ。

 

おっと、話が逸れたが、一乗谷は福井県が意外と力を入れているみたいで、町並みを復元していたりと楽しめる場所である。

これが、朝倉氏の屋敷跡だが、この奥に屋敷があったいうが、ここは今で言えば県庁に当たる役所であり、朝倉の殿様がここの住んでいたのでない。

主殿もあるのだが、これは政務の折に私邸からやって来てここで休んでいたという場所である。

ここは城ではなく、御殿が集まっている越前国の中心地であったのだ。

足羽川から用水路を引き込み、多くの商船が行き交っていた往時に思いを馳せる・・・

信長公の越前攻めで全てを焼き尽くされたのが残念に思える。

江戸の町も水路が整備され、この様な船が現在のトラックの様に行き交っていたのだ。

昔の最大の貨物運搬とえば、船であったのだ。

この写真だけでも、大八車何台分か???である。

これも二人の船頭で動かせたのだから効率が良かったのである。

足羽川も現代よりも川の整備がされていて、これ堀大きな帆船が来ていて、用水路との分岐辺りに多いな問屋街があって、そこで一旦荷下ろしてから、小型の船に乗せ替えて運び込まれていたのであろう。

背後の山の上に一乗谷城があったのであるが、通常、殿様は城へは行かない。

織田信長公の居城であった岐阜城であるが、天守があるところまではロープウェイで上がっていくのであるが、信長公は通常そこでは生活していなかった。

山の下の巨大な御殿があって、そこで日常生活や、使者と対面したりしていたのである。

山城の場合、平時は下の御殿、戦の折は山城に籠もるというのが一般的であった。

因みに、山城の場合、その山の木々は全て切り倒していた。

今観るように木々が鬱蒼していたら、敵が来ても分からないでしょう?

木や背丈高い草等を刈るのも、足軽の大切な役目であったろう。

やはり、地政学を学ばないと、歴史が見えてこないといえる。

 

そこからすると、甲斐の武田の本拠地であった"躑躅崎館"跡にある武田神社だが、これは残念だった。

ここは武田信虎(信玄の父)が石和よりこの地に本拠地を移したというから、歴史は長くない・・・

まあ、今観てもちんけであるから、当時もチンケであったあったと思われる。

 

何故か?それは、商店街が無かったからである。

昔の通常の町並みは、領主の住んでいる館があって、その周りに家々が少し立ち並んでいた。

多くの兵士は百姓であったから、平時は自宅に住んでいた。

詰まり、商売が成り立たない人口密度であったのだ。

だから、領主が「月に一度、3日には市を立てよ」と言って出来たのが、三日町、四日町、五日町、六日町等々の地名で残っているのだ。

それぞれの日に市が立てば、その日にそこに人が集まり、物々交換等の商行為が行われたのだ。

では、何故人が集まって生活していなかったのか?

それは、通常、殿様の家臣団は、各々の領地で生活していたからである。

軍議や、呼び出しがあったの時には、数名の護衛を従えて登城したのだ。

 

それを打ち壊したのが、天才織田信長公であった。

信長公は、家臣を自分の城下に住まわせた。

柴田勝家、丹羽長秀等々の家臣が、岐阜城下に住むとなると、彼らの家族や下働き等も含めれば数百人は住んだはずだ。

すると直ぐに何万人規模の町が出来上がったのである。

1万人も人が住んでいれば、商人も行商で無く定住しても商売がなり立つのである。

現在の東京にも、信濃町、浜松町といって地方の名が付いた町があるが、それは家康公がそれぞれの地から移住させたからである。

 

それが無かった武田の城下は寂しかった・・・

それと、躑躅ヶ崎館跡を観れば、実は甲州人は武田が嫌いなのか?と思ってしまうほど、館跡内が汚い・・・

越前一乗谷とは大違いである。

 

躑躅ヶ崎館から数㎞の場所に、甲州善光寺がある。

立派な建物であるが、寂しさが漂っていた・・・

武田家が滅んでいなければ、ここが善光寺の本寺として凄い賑わいだってに違いない。

武田晴信は、川中島の合戦にかこつけて、信州の善光寺から御本尊を甲州に持ち帰り、この地に甲州善光寺を建立したのだ。

そもそも絶対秘仏である如来像は、御開帳でも観ることが出来ないのである。

御開帳で観られるこの如来像は、前立本尊といって、御本尊をもして作られた物である。

 

この如来像が、本多善光に「信州に連れて行け」と言って、善光は運んだのだから、甲州に持ってきてはいけないのであった!!!

 

帰り道、談合坂SAで夕食を食べたのだが、これまた気持ちが悪かった!!!

未だに、コロナとか言って、この騒ぎ!!!

だって、ここで食べる人々は同じ車で来ているにも拘わらず、これって意味が無い!!!

100歩、いや1万歩譲っていえば、パーテーションで区切るなら横だろう?

ここからは、私の分析であり、考察である。

山梨県はどうも御上の言うことに反応し過ぎていると思う。

これは、織田徳川連合軍に完膚なきまで滅ぼされてから、甲州人の人格が変わったのではないか?

「御旗楯無御照覧あれ!!!」と武田菱をたなびかせ、三方原へ雪崩れ込んだ時の勢いがない。

現在と比べると、人が変わったように思える。

江戸時代には、甲府宰相家の城下として、甲府宰相家が無くなり天領となってからは、江戸市中の札付きの悪御家人の島流しの地としての甲府勤番であったという・・・

 

詰まり、他国者に支配されてきた歴史が甲州なのだ!!!

現在、新型コロナウイルスなど世界中では過去のものにも拘わらず、日本は未だにマスクを取らない・・・

御上への点数稼ぎに躍起な気配がしてしまうのだ。

田舎者ほど、これが強いのだ。

それが、明治の文人である夏目漱石と森鴎外にも通じるのだ。

夏目漱石は生粋の江戸っ子であり、都会人でいるから、明治政府への義理など微塵も無いから、国費でイギリス留学下にも拘わらず、途中で帰ってきてしまったが、田舎者の森鴎外は、頑張って勉強したのだ・・・

 

詰まり、自分自身で考えない奴らとも言える。

 

山梨県は南アルプス、八ヶ岳等々美しい景色に、良い温泉を持っているのに残念である。

 

私は、レストランで「これ取れないの???」と訊くと、ウェイターの返事は「取れないのです」ってバカな答えというより予想の範疇であった・

「刑務所や拘置所の面会じゃ無いぞ!!!」といったが、それも不思議に思わないほどの気持ち悪さであった。

 

詰まり、客がどう思うか寄り、御上を観ているのである!!!

 

ああ、残念である。

このままだと、この馬鹿馬鹿しい措置で、日本文化が崩壊するのかも知れない・・・

恐ろしいとこだ。