9月10日午前810分、青函フェリーあさかぜ21号は、汽笛を鳴らし静かに函館港を出港した。

そう、実はこの時点で既にやらかしていたのであった・・・

 

時間を1時間程戻そう・・・

朝、7時朝食も食べ終え、MOTORHOMEに乗り込み、函館フェリーターミナルに向かおうとしたとき、ラインメッセージに気が付いた。

差出人は母親であった。

『12日、13日、植木屋さんが来るから帰ってくるな。ご近所に配る1000円位のお菓子を6箱買ってきて』であった。

植木屋が来るなら、もう数日前に連絡をくれれば、もっと北海道を堪能できたのに・・・

北海道の菓子折といえば、"白い恋人たち"であるが、土産物屋など早朝にやっている訳がないし・・・

そこで思いついたのは、フェリーターミナルである!!!

土産物屋があった!!!

と、ナビに函館フェリーターミナルと言うと、「はいセットします」との返事であった。

5号線を走り出し、何時もの交差点を左折して国道227号線で進むが、ナビ様の「次の交差点を左に曲がります」の案内が早い気がした・・・

「???」と思いながらも左折すると、確かにフェリーターミナルに着いたのだが、ここは津軽海峡フェリーでなく、青函フェリーのターミナルであった・・・

時間も押し迫っていたため、この船の乗船券を買ったが、ターミナルが狭すぎてお土産など売っていないではないか!!!

こうして、呆然としながらも、チャー様を残して客室へ向かったが、なんと全て雑魚寝部屋しかないのであった・・・

これに約4時間、じっと我慢の子であった・・・

津軽海峡より陸奥湾に入ってからの方が波が高かった・・・

 

青森港に着き、フェリーから下りると、そのまま隣の津軽海峡フェリーのターミナルへ寄って買物をしたのだが、残念ながら"白い恋人たち"は売っていなかったが、何と、"青森の恋人"なる怪しいバッタ物臭い物が売っていた・・・

名前こそ怪しいが、リンゴベースのお菓子であった。

これを買い込み、朝風呂に向かった。

"たらポッキ温泉"がGoogleマップで出たので、取りあえずそこに向かったのだが、国道7号線沿いだと思いきや、途中から県道247号線(昔の国道みたいで、奥羽本線に平行している)に入ると、田舎度がMAXになり、更に"たらポッキの湯"が想像を遥かに超えた場末の銭湯感120%であった・・・

田舎を馬鹿にしてはいけない!!!

田舎度は都会者の想像を超えて田舎なのである!!!

想像では、通常のプチスーパー銭湯であったのだが、ここは本当に昔ながら銭湯であった・・・

入口で靴を脱ぎ、450円払って脱衣所に行き、風呂場へ行き、腰掛けを置いて洗面器を設置すると簡易シャワーがあるにはあるが、お湯と水の蛇口が銭湯のような上から押すタイプ!!!

子供の頃の銭湯の蛇口であった・・・

しかし、湯船に入ると、源泉掛け流しの紛れもない温泉であった・・・

 

さっぱりした後は、家にも帰れないので、急ぐ家路で無くなったため観光をすることにした。

先ずは、浪岡御所と弘前城を観ることにした。

浪岡御所とは、北畠一族が築いたとか、奥州藤原秀衡の子孫だとか言うが、証拠がないので恐らく北畠だとなる。

かなり広い縄張りであるが、この城跡から最盛期には人がそれなりにいたのだと思われる。

何故浪岡御所?というと、"信長の野望"で何時も弱い戦国大名として登場するし、浪岡の家臣からゲームをスタートしたこともあったが、7割の確率で南部氏に滅ぼされてしまうのだ・・・

史実は、南部一族の大浦氏によって滅ぼされたのである。

この大浦氏は後の津軽家となるのだが、これは太閤殿下の小田原攻めの折、南部より先に大浦が参陣して、太閤より所領安堵の覚書を下賜されたことにより、南部より独立を果たし、津軽を名乗ったという・・・

南部家と津軽家の仲の悪さは、この辺りからかも知れないし、現在でも同じ青森でも言葉が違う等々あるという・・・

これも明治政府の肝の小ささから来た嫌がらせであろう・・・

 

そもそも、鎌倉に逆らった奥州藤原の子孫がこの地に来たって「だから何?」、「通報するよ」となるはずだ。

前にも書いたが、武士の土地の所有権は、鎌倉が認めているのだから、反鎌倉は土地の所有権が無いのである。

そもそも朝廷は、武士の土地の所有を認めていないのである。

何故なら公的には"公地公民"なのだから・・・

 

正に、"夏草や兵どもが夢の跡"を実感できる場所であった。

 

次に、弘前城であるが、ここは桜の名所であるという。

決して言ってはならいが、ちんけな天守である・・・

1枚の写真は櫓であるが、天守より立派であるし、この天守、江戸城の櫓より小さい・・・

まあ、江戸城と比べてはダメダメであろうが、津軽侯も、参勤交代で国にいたのは嫌だったろうな・・・と思えた。

先ずは、下手をすれば領民と言葉が通じないし、家臣団だって訛りが強ければ通じない・・・

夜は真っ暗だし、女も田舎臭い・・・

今だって、津軽に住んだら、一発で銀座のネオンが恋しくなるのと同じである。

しかし、4万7000石から始まり、幕末には10万石になっているのだが、それでも広い城に驚いた。

城からは、岩木山が綺麗に見えていた。

地の果て感は十分にあった・・・

 

弘前城を後にして、大鰐弘前ICから東北自動車道にのり、一路岩手を目指した。

この日は岩手山SA泊とした。

 

私の立案した計画では、途中胆沢城跡を見学して、須賀川市の円谷英二ミュージアムに寄ることであった。

朝5時に起きて、朝食を摂り、出発であった!!!

 

胆沢城跡・・・

ここは、門すら再現していない・・・

ここが陸奥の中心地であったとは、その形跡は跡形もなかった・・・

坂上田村麻呂、源八幡太郎義家公(私の先祖でもある)もここに御座したとは・・・

前九年の役、後三年の役の計12年間、八幡太郎はここに住んでいた!!!

どれだけの女と子をなしたのであろうか・・・

その女性等の子孫も八幡太郎の血が入っているのである。

男系ならば、畏れ多くも神武天皇のY遺伝子を保っているのである。

だから、日本人は皆家族と言えるのだ!!!

古の浪漫満載である!!!

 

この後、朝風呂を浴びに胆沢城から数分の薬師堂温泉に行った。

ここの湯も最高としか言葉が見付からないほどのいい湯であった。

陸奥国は奥が深すぎる!!!

 

この後、平泉を目指した。

良くTVなどでも観ることのあった"達谷の窟"であったが、行くと丁度法螺貝の音が響き、読経が始まった。

最近、毘沙門天のマントラを覚えたので、毘沙門天からのお呼びであったのだと思った。

 

その後、厳美渓へ向かった。

ここは小学生の頃に、夏休みの家族旅行で来た記憶がる。

そろそろランチタイムであったので、近くの蕎麦屋に入った。

天麩羅蕎麦であるが、なんと無花果の天麩羅と林檎の天麩羅もあった・・・

初めての食感と味に感動した。

自他共に認める美食家である私が、57歳にして初めて食べたのであった!!!

「日本は広い」と感じたのだ。

 

食後に看板に見せられて骨寺村荘園跡に行ってみた。

騙された感満載であった・・・

昔ながらの村は分かったし、吾妻鏡や骨寺村絵図等々昔の文献に載っている村であることもわかった。

中尊寺の経藏別当の荘園であった事も分かったが、この人達、"荘園"を理解していたのか?である。

国史のおける荘園は、奈良時代まで遡るが、これは脱税システムである!!!

律令制度ができて、律とは刑法で令は民法であるのだが、何故か日本には律は明確に存在していなかったらしい・・・

支那と違い悪が少なかったのだと思う・・・

令は事細だったという。

話を戻すと、公地公民が国是であったのに、貴族達が旨みが無いから、三世一身法を制定し、それも旨みが少ないから墾田永年私財法を制定した。

しかし、耕地は課税対象であったから、荘園を編み出したのだ!!!

荘園とはその名の通り、私有地でありそこのなっている稲穂は観賞用の稲穂であると主張したのだ。

鑑賞だから食用で無いという論法である。

藤原がこれを大々的に始めたので、朝廷の税収が減ったのだ・・・

だから、羅生門は汎化してい野盗や乞食の住処と化していたのだ。

平安時代には、天皇すら荘園を保っていたのだ!!!

変でしょう?

公地公民とは、全ての土地と民は天子様のものであったのに、日本中荘園だらけで政府に金がなくなったのだ!!!

荘園を撲滅は、太閤殿下の太閤検地を待つしかなかったのだ・・・

室町時代が如何にヤバい時代だったかお分かりであろう?

自分の領地に荘園があって、そいつらは言うことを効かないし、納税しないのであるから、力で潰すしかなかったのであった。

しかし、その荘園が、五摂家や有力寺社のもの(名義貸しで、名義料を支払っていた)であったら、手が出せないかったのだ。

 

余談だが、太閤検地前に、信長公が信長検知をしていたのだ。

太閤検地は、信長検知を蹈襲しただけであった・・・

検知に逆らう奴は皆殺し!!!

実際に、大和国で検知に反対した村人2500人を皆殺しにしている。

 

骨寺村は、中尊寺の脱税村であったというのが事実である。

俺なら"荘園跡"とは名乗らないが・・・

これが歴史を知らない奴らは、恥をさらすという良い例である。

 

この日は東北自動車道築舘ICから乗り、国見SA泊であった・・・

 

つづく