予定通りに7時半に、中津川のホテルを出発して、向かうは伊那の座光寺こと元善光寺である。

飯田方面に向かうには、恵那山を越えなければらず、ここは高速道路を使って恵那山トンネルでショートカットした。

中津川は、塩尻方面からやって来る中仙道で賑わった宿場町であったが、中央自動車道は、南アルプスと中央アルプスの間にあるのだが、中仙道は中央アルプスと北アルプスの谷間である。

 

行ったことがある人なら分かるが、兎に角深い山の中である。

鎌倉殿の13人でも出てきた、木曽義仲とはこの様な山奥で育った純朴な人であった事は理解できるし、今の山猿的イメージは、"勝った側の作った歴史"であることが伺える。

数年前に、"義仲館"というミニ博物館に行ったことがあるが、その折り地元の人と話したが、義仲像は創作であったと言っていた。

そもそも、木曽谷は貧乏(昔から林業で、耕作地が狭い為常に助け合い)であり、皆が助け合わねば生きていけない土地であるから、心が優しい人であった筈だとの事だ。

 

今は、高速道路が中央アルプスを恵那山トンネルで突っ切れるために、中津川とはまったく違った文化圏の飯田へ直ぐに行けるのである。

恵那山トンネルを抜けて暫く行くと、座光寺スマートICがあるので、そこで高速を降りて山を下って町へ入ると元善光寺の案内があるのでそれに従って行った。

ここは、本多善光(ほんだかねみつ)が、推古8年(600)に難波にある和光寺の池に物部氏によって遺棄された阿弥陀如来像を拾い持って帰ったことに始まるという。

言い伝えでは、池が金色に光りそれを見た善光が像を見付ける。

像が「信濃水内郡芋井郷に連れて行け」と言ったという・・・

そして、この元善光寺の辺りに本多兼光の実家があり、阿弥陀如来像を石臼の上に安置していたら、臼が光り輝き「早く連れて行け」となり、現在の長野の善光寺の地へ行ったという。

実は、この阿弥陀如来像こそが、御開帳の仏であり、この像には曰くがある。

そもそも、阿弥陀如来像が、現在の善光寺の地を選ばれたのである。

この像を最初に持ち出したのは、武田晴信(信玄)であり、持ち出した理由は「この地は越後勢との戦の地であるから、燃えては大変だから、安全な甲州に安置する」となり、現在の甲府市に甲斐善光寺を建立したのである。

しかし、この阿弥陀如来像のご意志に反した武田家は滅んだ。

次のこの像を手にしたのは、右府信長公であったが、織田家も没落、その後は太閤秀吉殿下の手に渡ったが、豊臣家も没落。

そして、神君公の手に渡り、神君公は阿弥陀如来像を元の長野の善光寺へ戻したので徳川は栄えたという・・・

 

甲斐善光寺の本堂は、本家のそれと同じ作りであり、立派であったが、元善光寺はこじんまりとしていた。

しかし、良い雰囲気であった。

元善光寺で肩透かしを食らったために、一路木曽駒ヶ岳を目指したのだ。

 

移動には高速道路を使わずに、敢えての国道153号線を選んだ。

国道や昔の街道を行くと、その土地その土地の匂いがわかり、歴史を感じることが出来るのである。

毎回思うのだが、恐らく153号線は昔からある街道で、山を越えるのは峠道があった筈だが、現在はトンネルで山を越えるのだが、トンネルを潜ると明らかに文化の差違を感じるのだ。

集落が変わったとか、藩が変わったとかが、その景色で感じることが出来るのが、下道の魅力であると思う。

高速道路は、早く移動できるのは便利であるが、人々の営みを感じることが出来ない無機質さがある。

 

前々から気になっていていたのが、"木曽駒ヶ岳"である。

ロープウェイで上がるのは知っていたが、ロープウェイ駅まで直接行けないのだ。

菅の台という所で、自家用車を降りて、そこからはバスでロープウェイ駅まで行くのである。

「バイクなら行ける」と思ったが、無理!!!であることは後に納得できた。

さて、バス・ロープウェイの往復券を買ったが、何と一人4200円であった!!!!

二人なら小一万円である!!!

ぼったくりビジネスだ!!!と思ったが、まあ、バスに乗り込みバスは道を上っていくが、途中山岳路線に入ると、バスがギリギリの葛折りをくねくねと行くではないか!!!

これではバイクとでもすれ違えない極狭道路であった。

そして、ロープウェイで一気に標高2100mまで上がっていくと、下界は30℃越え、東京は40℃近かったのに、ロープウェイの山の上の駅では何と気温19℃であった。

それの青さが違う!!!

登山をする人はここから上っていくが、私は直ぐに下山した。

南アルプスが全面に広がり、写真中央奥がなんと富士山である。

やはり、"富士は日本一の山"であると思った瞬間だ。

 

バスで駐車場迄降りてきても25℃前後と涼しいのであるが、次の目的地は諏訪大社であったため、ナビ様は高遠を抜けて諏訪大社の背後から行く道を選んでいた。

 

国道152を進んだのだが、途中に守矢山登山口があったのだが、この守矢山が諏訪大社の御神体である。

 

高遠蕎麦が、東北地方の蕎麦の素である。

この地の藩主であった保科正之侯が、藩替えで山形藩になったのだが、その折り、地元の人々や家臣団が、「兎に角一族で優秀な人間をお供に付けろ」となり、山形そして会津と転々としたのだ。

蕎麦の実は米と違い、痩せた土地で出来るのであるから、保科正之侯が行かれた場所が如何に大変であったかが伺える。

保科正之侯こそが、会津藩開祖であり、大老として善政を引き、明暦の大火で焼失した江戸城天守再建よりも、埋め立てて街を大きくすべきとと指揮を執った人物である。

会津藩で、教育、医療の無料化、齢90差違を超えたお年寄りには藩より食い扶持が支給する制度をつくった偉人である。

現在の日本でも出来ないことを約300年前にやっていたのである。

 

この保科正之侯の評価が低いのは、会津戦争の痼りがあるからだというが、今の政府の懐の狭さ、肝の小ささが伺える。

 

そんなことに思いを馳せて走っていると、諏訪大社に着いた。

詳しくは前回書いたので、今回は省くとする。

 

旅のミッションは全てクリアしたので、帰路についたが、諏訪は暑い!!!

諏訪南ICから中央道に乗り、東京を目指したが、八ヶ岳から一気に行動を下げて甲府盆地に入った瞬間、暑さが桁違いであった!!

この日の私は指が出ているタイプのグローブをしていたが、その指が火傷しそうなくらいに熱いのだ!!!

Harleyのエンジンの熱でなく、直射日光の照り返しの暑さ出ると気が付いた。

路面温度が恐らく80℃近かったと思う・・・

 

「打ち水をすると涼しくなる」と良く聞くが、これは気化熱で気温が下がるからだというが、私は違う!!!と思っている。

60℃〜80℃までに熱せされた道に、水を撒くことにより、道の表面温度を下げるから涼しくなると思う。

皆さんも、今回の新型コロナウイルス騒動で、非接触型の体温計を買った人も多いと思うが、通常この手の体温計には、体温モードと表面温度モードが選べると思うが、その表面温度モードで昼の熱く熱せられて道を計ってみれば、私の言うことが大げさでないことがお分かりになると思う!!!

詰まり、天然の床暖房状態なのである。

 

談合坂SAで、最後トイレ休憩と水分補給をして、指先まで覆われている夏用グローブを付けて、高井戸ICまで行き、そこから環8を北上し、15時に無事帰宅した。

 

今回の旅の総走行距離は892.8㎞であった。

40代ならば、一泊であろうし、20代なら日帰りかも知れないが・・・

そうそう、40代でフロリダ州からカリフォルニア州のLAまで大陸横断(アメ車のピックアップトラックで)したが、一日の平均走行距離はこんなもんであった。

 

しかし、旅の目的が変わってきたのかも知れない。

今は歴史探訪であるから、無理せず、疲れたらそこで泊まるである。

地元の旨いものに舌鼓を打つのが楽しいのだ。

 

今回の旅はこれで終わったが、秋には温めている山陰山陽バイク旅を実行しようと思っている。

今度は、頑張ってHarleyではなく、余裕を持って乗りやすいBMW・GSAで行く予定である。

 

Harleyの燃費だが、この度の平均燃費は18.7㎞/lであり、ガソリン代も8931円と約1800ccの排気量からすれば走った方だと思う・・・