よく見る言葉に「江戸時代は〜」というのがある。

算術でも江戸時代の円周率は3.16であったとうが、それは何時の話?である。

 

"江戸時代"は約270年間あって、それぞれの時代で何もかも違っていたはずである。

昭和、平成、令和だけでも、人々の生活がまったく違っているではないか!!!

今年は、昭和97年だそうだ。

私が生まれたのは昭和40年であるが、現代とその頃では日本人が別人のようになり、東京の景色も変わってしまった。

 

父の話だと、大卒の初任給が1万円だったみたいで、私が生まれた年には既に初任給2万円だっと言う・・・

3年ぐらいで倍になった計算だ・・・

 

詰まり、江戸時代前半と後半では、"1両小判"の価値が大きく変わっていたと言うことになる。

インフレが起きていたからであり、それは経済成長していたという証拠である。

幕末の日本のGDPは、欧州一国より多かったと言うから、決して東洋のちんけな島国ではなかったのだ。

経済で言えば、既に先物取引が行われ、"為替"が広く使われていて、弥次さん喜多さんの道中だって、現金など持って行っていなかったのだ。

通常の町人なら、普段使っている貨幣は一文銭であったはずだ。

1両が4000文であるから、仮に旅に1両を旅費として持っていくならば、4000枚のコインを縄に通して首から提げたと言うことになる。

一文銭は大きさと重さが我々の使っている5円玉と同じであるから、1枚の重さが約3.75gである。

これが4000枚となると約12㎏となるから、ウェイトトレーニングでない限り、首から下げることは無かったはずだ。

 

数学も江戸時代は凄く、関孝和とう数学者が有名であり、なんとベルニューイ数を彼より早く計算していた。

又、常陸国の生まれで算術家の村松茂清という人も凄かった。

何と、円周率小数点以下7桁まで正確に計算して、円周率を"3.14"とした人であった。

 

我々が学校で習ったπ=3.14とは元禄時代辺りに確立されていたのである。

余談だが、村松茂清は江戸に出てきて、球の体積などについても書かれている"算爼"(さんそ)という書物を書いているし、この本は現代語訳されて出版されている。

この人の子と孫は、赤穂浪士討ち入りに参加していた・・・

 

武田邦彦先生に言わせれば、生まれながらに数学の得意な人は現代日本においては約60万人いるという。

これだけの人がいれば、日本国としてはまったく困らないから、それ意外な苦手な人に無理矢理数学を教える必要はないというのだ。

今の学校教育は、平均的な人間を作るためのもので、"出る杭は打たれる"教育である。

よく大学時代日本人友人等とこう言う話をした。

USAでは、"出る杭は打たれる"でなく、"出た杭を更に出す"という教育をしている。

人それぞれの個性を生かした教育をせねば、国が滅んでしまう。

 

"江戸時代"の教育は、先ずは初等教育として寺子屋に通い、"読み書きそろばん"を習うが、先生は子供達の素質を見ていたという。

次の段階の寺子屋に行く場合は、先生がその子にあった寺子屋に行かせていたというのだ。

武家も同じで、基本的な作法は厳しく習うが、勉強に対しては割と自由であっと言う。

藩士ならば藩校へ通う訳だが、そこでも"身分によって"ではなく、学力や適材な学問(本人が好き)を教えて個人の能力を如何に伸ばすかであったという。

算術が得意ならば、勘定方へ、法が得意ならば町奉行所へ等々だったという。

何故なら、武士はそのまま軍隊であったから、無能な奴がいたら即皆の死へ繋がるから、どうしても合理的に物事を考える組織であったと言える。

 

政治家だって、当時の政治家と現代の政治家とでは比べものにならなかったのは、歴史を観れば明らかである。

 

現代日本のダメ教育を物語っている番組をこの前観た。

母が好きでよく観ているのだが、芸能人が俳句を作ってそれを先生みたいのが添削するという内容であった。

ある芸能人が俳句を作り、最後に"裸足の子"としていて、夏の風景を取り込むというお題であったのかもしれない。

その先生は"裸足の子"を"日焼けの足"(チラ見だったのでうろ覚え)と書き直した。

しかし、日焼けの足と裸足の子では、句からうけとる情景がまったく別物になってしまう。

「こちらの方が良い」とその婆さんは、どや顔で言っていたが、それが現代日本のダメ教育そのものであると私は感じだ。

 

個性の否定である。

これでもバカな人間しか生まれない・・・

 

江戸時代がダメというのは、明治政府のプロパガンダであり、戦後のGHQの嘘の刷り込みである。

 

江戸時代の教育が素晴らしかったから、明治に欧州列強と肩を並べられたのだ。

因みその時代のアメリカは二等国であった!!!

アメリカが一流(どこが?)にのし上がったのは、第二次世界大戦後である。

 

このままでは偉大なる大和民族の先人にどう申し開きをするつもりなのか?

だから、歴史を知ることが正しい未来を作ることであると信じている。