"武士道と云うは死ぬる事と見付けたり"

これは江戸中期の"葉隠聞書"に出てくる有名な一節である。

 

我が国において初めて"武士"という単語が公文書に載ったのは、養老5年(721)の元正天皇の詔であるという。

しかし、この当時の武士とは貴族であり、中世の武士とは大分性格が違う。

坂上田村麻呂は、「武士とは代々武が得意な家系を云う」と言ったらしい。

代々音楽に秀でている家系は雅楽士になるという事と同じだである。

 

しかし、平安京に遷都した桓武天皇は、なんと朝廷の正規軍を解散してしまったのだ!!!

何故か?

これは、我々の信仰と深く関わるものである。

 

皆さんは、自分専用の箸、茶碗、お椀等をお持ちだと思う。

家族間でもこれらを使い廻すことは無いはずだ。

まして他人に使われたら、かなりの不快感を覚えるはずだ。

そう、これが大和民族の根底にある信仰心なのである。

"穢"なのだ。

 

魂が穢れて死ねば、その者は怨霊となり仇をなすのである。

だから、他人に恨みをかってはならない・・・

源頼朝公が奥州藤原征伐した折り、日本以外の国ならば、金色堂は破壊されて筈だし、藤原氏のミイラもお棺から取り出して破壊して、下手をすれば小便まで掛けて晒しものにするのである。

しかし、日本では一切この様なことはしない!!!

何故なら、祟られるからである。

この祟りも穢なのである。

平安時代、禁裏に参内するときに、犬や猫、鳥などの死体を見かけたら、参内せずに禊ぎに行くことが公に認められたのである。

桓武天皇が平城京から平安京への遷都の理由が、弟宮の怨霊に悩まされていたからである。

それを公卿に言ったときに、誰一人反対する物が無かったという。

今、総理大臣が「安倍元首相の怨霊に悩まされているから、遷都する」と言ったらどうなるか?

反対意見もなく、一同頷いて平安京へとの遷都に大賛成したのである。

怨霊信仰があった証拠である。

 

動物の死骸も穢れているのだから、最大の穢は"人の死"となる。

だから、朝廷は軍隊を解散したのである。

では、それに代わって穢を担当するのが、身分の低い輩であった・・・

因みに、坂上田村麻呂は桓武天皇以降の人であるが、彼は蝦夷征伐であり、蝦夷の人々は"人"では無いから殺しても良いという道理である。

人とはあくまで大和朝廷の枠組みに入った者を言うのだ。

広大な東北地方の太平洋側は陸奥国、日本海側は出羽国なのだ。

常陸国(現茨城県)以北は陸奥以上!!!という感じであった・・・

坂上田村麻呂が阿弖流為を破って朝廷に入り、蝦夷の人々は以降"人"となったのだ。

 

さて、我々の知っている"武家"の登場は、平安時代後期になる。

丁度、都では関白太政大臣藤原道長が、藤原氏がこれまで築き上げた摂関政治の絶頂を極めていた少し前に関東では武士による独立が成された。

平将門公による関八州独立であった。

 

"夏果てて秋が来るのにあらず"

これは徒然草の一節だが、夏が終わって秋が来るのではなく、夏の暑さの中にも秋の気配が既にあるの喩えで、時代の変化も同じで平安貴族文化隆盛の中に既に次の武家の時代の依吹が既に現れているということである。

 

平安貴族文化とは、藤原氏が天皇に自分の娘を娶らせて、その子の産んだ子が天皇になった時に外戚の祖父の地位を利用して行ってきた俗に言う摂関政治である。

朝廷の主な役職は全てこの摂関家で締めてしまうのだ。

道長の父は兼家だが、4男か五男であるため、兄の道隆が権力を手中に収めていたが、兄が亡くなりその子道頼になると激しい権力闘争の末に、道長が権力を得る。

詰まり、その後道隆の子孫は憂き目を見ないということである。

藤原氏でも、その人数は膨大で、摂関家に近い親戚以外は中央の要職に就けない。

桓武平氏も清和源氏も同じで、天皇の皇子は親王、孫は王となるがそれ以降はただの人となる。

詰まり、親王や王ならば中央にいても食べて行けたが、それ以外だと食うに困ったのだ。

そこで思いついたのが、国主となって地方へ行くことであった。

桓武平氏は一族を連れて常陸国へ赴きそこに地盤を築いた。

では、どうやって築くのか?

 

自分のことだと思って考えて!!!

仕事が無いから最後のコネを使って武蔵野守となり、東下向する。

政府の予算を使って新田開発して、任期(1年)が終わったら、公金で開発した新田を個人の荘園とする。

荘園とは脱税システムである。

この時代、田畑の広さによって年貢が決まっていたが、荘園は「個人宅の庭であるから、田畑にあらず」という理屈である。

現在の政治家や官僚とやっていることは同じである・・・

任期が終わる前に、自分の兄弟を新しい国守としてもらい兄弟力合わせて新田開発して一族の元とするを10年間頑張れば東京都以上の広い領地を非合法に手に入れられるのである。

非合法だから、隣の荘園の奴に襲われても御上に訴えることが出来ないから、自衛するのである。

それが武士団の始まりとなる。

隣の奴らを力ずくで押さえて、領地を広げていくのである。

 

そうやって関八州を手に入れたのが平将門公であった。

しかし、反対勢力により潰された。

将門は武士のあり方を朝廷からの独立としたが、従兄弟の平貞盛は、朝廷に食い込むことにより武士の地位向上を目指した。

貞盛の子孫が、伊勢平氏である清盛であり、北条氏を始めとした関東の平氏武士団を形成していくのであった。

 

貞盛の思いは、子孫の清盛によって叶うのである。

武家で初めての太政大臣であった!!!

しかし、自身の子を入内させて藤原氏の摂関政治を目指した所から武家の不興を買って滅びの道へ進んだのであった。

それを見ていた源頼朝は、京都から距離を置いた鎌倉を武家の中心として"武家政権"を樹立したのだ。

後白河法皇と、司法権、徴税権を奪い取ったのだ。

今だって、腐った日本政府からこの二つの権利を奪い取れば新政府が出来あがるのだ!!!

 

こうして、力ある武家が政治を司るという当たり前の事が完成したのだ。

 

穢れそれも一番の穢である殺人、戦に貴族ではなく、身分卑しい武士を使って200年上経っての快挙である。

最初に武家反乱をした平将門公より約200後の出来事であった・・・

 

今回の最後に書いておくが、藤原氏と天皇家は何百年にわたって戦ってきたのだ。

藤原摂関政治に対抗すべく、源氏(天皇の皇子を臣籍降下させて作る)を大量に作ったが、悉く藤原氏に殺された・・・

皇族は殺せないが、臣籍降下したらただの人の論法である。

村上源氏が多かったのだ。

村上天皇の皇子達であった・・・

源氏物語を読んだことのある人ならお分かりであろう。

源氏物語では、桐壺帝の皇子である光源氏が、並み居る藤原氏を打ち負かせて、政治権力や美女を手に入れるお話である。

これは現実世界とは真逆である。

では、何故藤原道長は、紫式部のパトロンとなり、源氏物語を完成させたのか?

それこそ怨霊信仰である。

歴代藤原氏が殺してきた源氏達の怨霊の行き場を、パラレルワールドである物語の中に封じ込め、物語中では憎き藤原を倒していくのである。

これは無念の死を遂げた源氏へのレクイエムなのである。

 

さて、日本史を勉強していくと不思議単語である荘園、院政で日本史が理解できなくなってしまうと思う。

私も同じで、そこまでは理解できていたのだが、荘園?院政?と教師に訊いても的を得た答えが無かったからドロップアウトしてしまうのだ。

荘園は脱税システムと理解すれば、皆さんももう荘園という単語は怖くないでしょう?

では、院政とは?

天皇家は、自身の皇子を臣籍降下させても負けたので、更なる戦略を練ったのだ。

その結果生まれたシステムが院政なのである。

天皇になりその地位を退くと"院"となり、天皇より上の地位となる。

この院を数多く作ることにより藤原に対抗したのだ。

事実、皇族であり、元天皇となると藤原氏でも手出しが出来ない・・・

これにより藤原氏の力が急速に衰えたのだが、同時に更なる厄介者の武家が登場したのだ・・・

院政の場合、最高位を"治天の君"と呼び、この治天の君の指示で動くよう成った。

後白河法皇や後鳥羽上皇等がそれであった・・・

もう一つ言えるのは、天皇家からすれば、長年戦ってきた藤原氏を倒したのは良いが、新たなる敵である武家の登場、藤原氏からしても武家は自分たちの敵となる。

"敵の敵は味方"の論理で、これ以降"朝廷対武家政権"という構図になったのだ・・・

 

 

つづく