正しい歴史を学ぶことが、大和民族の誇りであり、真っ当な子供を育てていけると思う。

戦後、GHQは徹底して日本の歴史を葬り去った。

歴史を失い、自信を失った日本人は、最早自分人の足で立てなくなり、考えることすら止めて、USAの洗脳を信じて盲進してきた。

奴らは、天皇陛下を穢そうとした。

"天皇の人間宣言"であるが、奴らは神道を理解できないから、下らない宣言と憲法20条で"信教の自由"を盛り込んだ。

 

しかし、当時の日本人でも天皇陛下が"神"だと思っていた人はいなかった思う。

天皇陛下は"神々の直系の子孫"であり、天孫降臨され人になったのである。

奴らの似非宗教と違うのは、"信教"とあるが、これは「神々について教わる」のであるが、神道に教えはない。

神道とは、自ら神々を発見して敬うことである。

そのお手本が陛下なのである。

父母を敬い、ご先祖様に守られるという神道のど真ん中の考え方は、押しつけ憲法ごときで変わるものではない。

 

文明とは、進化し続けるものである。

世界最古の縄文文明は、旧跡時代から始まり進化し続けていたし、縄文時代と一言にいっても、15000年〜3000年前となり、その間12000年あるのだ。

これは、現在の西暦のざっと6倍の長さである。

これは青森県の三内丸山遺跡であるが、手前の木組みは何に見えますか?

馬鹿な考古学会を無視して、日本人としてみれば、私にはお社に見えるのだ。

更に中央の建物だが、これは高床式なのだが、この質感は有り得ない。

これは未開の土人レベルの文化度で有り、とてもじゃないが、このレベルの文化度では木組みの柱一つ建てることは出来ない。

この柱一本の太さは、大人3人でも囲めない程であり、これを山から切り出してきて皮をむき、柱立てするだけでも相当な技術が必要である。

皆さん、今、出来ますか?

 

ここに住んできた人々と我々は、繋がっているのである。

戦後のGHQが日本歴史を否定して、神話教育を禁止した。

国際法違反である!!!し、ポツダム宣言違反なのだ。

だから、完全武装解除などしては成らなかったのである!!!

 

竹内文書によると、初代の天皇(すめらみこと)が宇宙より降臨され、五色人を作りそれぞれを地球に配したとある。

古代シュメール文明が世界最古と教えているが、縄文文明より8000年も新しいのだ。

GHQが神話教育を禁止た"お陰で"、それ以前の遺跡調査が大々的に行えるようになった。

すると、世界最古土器やら遺跡やらが続々出てきてしまったのだ!!!

 

さて、皆さんは"アカホヤの大噴火"をご存じか?

これは約7000年前に九州の形を変えるほどの大爆発を起こした火山噴火である。

噴煙は高く登り、火山灰は青森辺りまで降っている。

これ以降、縄文人の生活が大きく変わったのである。

それ以前の釣り針の小さく沿岸での漁業であったのだが、以降は針が大きくなり遠洋漁業をしていた痕跡がるのだ。

詰まり、火山灰で近場の海が死に、魚が住めなくなったため、遠くまで漁業をしたということである。

 

この時期に忽然と揚子江文明が起こるのであるし、メソポタミアの奥地ではシュメール文明も起こるのである。

単なる偶然であろうか?

左の像はシュメール文明のもので、右の像は法隆寺にある侍の像である。

これも偶然?

インドのタミール地方では、稲のことをイネ、父のことをチチ、母のことをハハと言う。

これも偶然?

縄文人は、既に外洋航海術を持っていて太平洋も横断していた。

その証拠は、各地で発見される縄文土器の破片である。

火山の噴火で、住めなくなった土地から安住の地を探して船で漕ぎ出すのは容易に想像できる。

海洋術が無いならダメだが、外洋航海術を持っていたのだから、間違いなく海を渡ったはずである。

 

地球は自転の関係で偏西風が吹くので、西側に退避すれば、火山灰の被害は少ないのだ。

だから、揚子江、更に海岸線進みインド、ペルシャ湾と進むのは自明である。

当時は、国境も無いし、縄文文明以上の文明が存在していないから、街を作れば直ぐに人が集まったのである。

シュメール文明の神話に、アヌンナキという神が出てくる。

彼は二ビルという星からやって来て、宇宙船の修理のために金が必要であったと神話に書かれている。

それを解読したのは、ゼカリア・シッチン氏であるが、彼こそ古代宇宙人説の元祖である。

 

スメラミコトは宇宙人だと竹内文書に書かれている。

更に化天界の1日は、人間界の50年である。

日本の古典(古事記編纂以前の)によると、一人の天皇の当地は数万年なのだが、仮に20万年だとしても化天界では10年である。

詰まり、地球上では20万年経っているのだが、宇宙人のスメラミコトは、10年しか歳を取らないと言うことである。

 

話を戻すと、自虐史観だと、全ての文明は西から東へであり、その吹きだまりが日本であった。

原始人に稲作を教えたのも大陸から・・・

しかし、各証拠から考察すると、文明は東から西へなのである。

元々、縄文文明が水耕水田をしていて、火山の難を逃れた縄文人が、揚子江へ行き、稲作を始めたとなれば、突如として揚子江文明が起こった説明が付くのである。

更に、それから数千年後に黄河文明が起こり、南下してきて黃河人と揚子江人が戦争になったのも説明が付く。

白人系の黄河文明は、主に狩猟をしていたので、獲物を追って西から東へやって来たのだが、そこに日本海があり進行は止まった。

となると、北上より南下するのは常である。

南下を始めると、稲作をしている人々との戦いとなった。

それが本国に飛び火し、縄文時代が終わり弥生時代と呼ばれる時代へ突入したのだ。

お借りした写真だが、どちらの服に労力が掛かっているのかお分かりであろう・・・

女性の装飾も縄文人の方が上である。

詰まり、弥生時代の方が、縄文時代より文化レベルが下がったのである。

何故か?

安全で無くなったからである。

この頃に既に日本では鉄器の武器が作られている。

世界最古である。

 

さて、考古学会はどうしても縄文人と弥生人を別系統にしたいらしが、時代と共に変化しただけである。

顔の復元をしているが、数体の人骨だけ調べて何になるの?と意味不明なことばかりをしている。

結局、自虐史観なのである。

 

7000年前に縄文人が大陸へ移動したのなら、蒙古斑は元々縄文人が持っていたとも言える。

縄文人がモンゴルに住み着いたともいえる。

 

そろそろ自虐史観を止めて、歴史を観てみれば真実が隠されているのが分かると思う。

それこそが、正に浪漫ではないか?