鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)という人物をご存じか?
歴史に残っている鳥居氏といえば、関ヶ原の前哨戦の伏見城の戦いのおりの城代家老鳥居元忠と天保の改革で有名な町奉行鳥居耀蔵こと鳥居忠耀(ただてる)である。
鳥居耀蔵は、時代劇では悪役として遠山金さんのライバルとして描かれいることが多い。
では、鳥居元忠について少し書くが、元忠は神君公の幼少より小姓として付き従っていた。
私の説では、松平竹千代→元康と徳川家康公は別人説を指示している。
家康公は世良田元信であるである。
そうでないと、"徳川"へ改姓の意味不明になってしまうし、後日「わしの家系は新田の家系だ・・・」と家臣に話した神君公の意図が不明となってしまう。
現代の学者は、家系詐称だというが、武士は勝ってなんぼの世界であるから、家系詐称するなら「足利の家系」と言ったはずである。
敢えて負けた側というとに真実が隠されている。
どうして学者は、その時代その時代の風俗習慣を考慮しないのか?不思議である。
話が逸れたが、風雲急を告げる慶長5年、反徳川の石田三成が積極的に動き始めた。
と言うより、これは家康公のよる罠であるのだが、大阪を後にして、会津の上杉征伐に進軍を始めるのだが、その前に神君公は伏見城へ入られた。
出立の前夜、神君公は元康と夕餉を取るとおっしゃった。
「で、何人欲しいか?」とのお言葉に、「500もあれば十分です」と杯を交わしながら話したという。
元忠は主君に「死んでくれ」と言われているのを感じていた。
「それだけで良いのか?」と問いに、「今後、上様は何人兵がいても足りないで筈です。西軍を引きつけて討ち死にするのに多くの兵は必要ないです」と応えたという・・・
ここで、元忠は壮絶な討ち死にをするのだが、何と10日間も足止めしたというから正に武士の鑑である。
元忠を討ち取ったのは、豊臣方の鉄砲頭の鈴木重朝であった。
重朝は関ヶ原では西軍であったが、その後浪人していたのを伊達政宗侯に拾われ、神君公へ渡され、慶長11年(1606)に神君公の直参として3000石で召し抱えられた。
後に水戸家の家臣となり、雑賀の姓を名乗るようになって、水戸家家老職の家柄となった。
伏見城で鳥居元忠が持っていた糸素縣縅二枚胴具足を重朝は、子の忠政に返却を申し出たが、これに忠政がいたく感動してそのまま重朝に譲ったという。
父の敵だが、"武士は相身互い"の精神で、心が通じ合ったのだと思う。
この具足は、平成16年に鈴木家から大阪城に寄贈されたというから、我々は実物を見ることが出来るのである。
さて、今回の主役である鳥居強右衛門の話だが、彼は奥平信昌に仕えていた。
奥平家は一端は武田信玄に下ったが、家康公の三方原での戦い振りに、自らの行いを恥じて帰参しているのである。
信昌は神君公の長女亀姫を娶っていて、"婿殿"といって重用されていた。
奥平家の居城長篠城を武田勝頼が、天正3年(1575)5月に15000の兵力で城を囲み籠城戦となった。
奥平家家中皆が、城と共に討ち死を覚悟した時に、強右衛門は信昌に呼び出され「岡崎の大殿の元へ行け」と命じた。
「保って4日、5日」との言葉を託された。
強右衛門は、川の中を進み浜松まで約65㎞の距離を走った。
浜松では、信長公と家康公が御座し、主君より託された口上を伝えた。
大殿は、「湯漬けでも食べ、着物を着替えて休んでいけ」
とのお言葉に「城では粥とは名ばかりの物を食べているはずです。自分だけ食を取ることは出来ないので、このまま城に帰ります」と言って籠城戦の長篠城へ向かった。
信長公と家康公はその後直ぐに浜松城を出発した。
強右衛門は、長篠城へ戻る寸前で武田方に捕まってしまう。
武田勝頼の前に引き出されると「お前は逃げてきたのか?」との問いに「私は今、浜松から戻った」と告げた。
武田方は皆驚いた!!!
勝頼は「援軍は来ないと言えば、命を助けてやるし、武田家で雇ってやる。更に城中の奴らの命も助けてやるぞ〜」と強右衛門に言った。
強右衛門は暫し考えてから「やもなし。そのように言いましょう」と勝頼に返事をした。
城から見える豊川の対岸に磔にされると、それを見た仲間達は固唾を呑んだ。
武田方に催促され、強右衛門を声を荒げた!!!
「城中の方々に物申す。徳川・織田連合軍4万は既に浜松城を出立した!!! 今しばらくの我慢でござる!!!」
その声を聴き、城中の士気は上がったら、怒り狂った勝頼の命により強右衛門はそのまま槍で突き殺された・・・
しかし、武田軍の中にも強右衛門に同情の声が多くかがったのも事実で、武士道、忠義を鑑みたら強右衛門は正に武士の鏡で有るからである。
武田軍は軍を引き、長篠城は助かった。
家康公は、婿殿を労うのと同時に、奥平家家老12人の手を取って労い、以降のお家安泰を保証するお墨付きまで渡したほどであった。
さて、強右衛門の家系だが、奥平の殿様は子々孫々まで遇し、彼から13代目の子孫は家老職まで付いている。
飯田線の鳥居駅は、強右衛門の墓があるから"鳥居"という駅名になったというし、強右衛門磔の場所も残っている。
この夏、長篠城趾を尋ねて、"日本人の心"に触れてみる旅は如何か?
この後、天正3年5月21日(1575年6月29日)武田勝頼は軍勢を再編して、長篠へ攻め込んできた。
これが有名な"長篠合戦" であり、世界初の鉄砲隊と騎馬軍団の大戦と言われて、戦国最強と言われた武田軍団が壊滅した戦いであった。
この戦が宣教師の寄って欧州に伝えられると、"日本恐るべし"という恐怖心を奴らに植え付けたのだ!!
ここでも、多くの歴史学者は間違いを犯している。
空堀と馬防柵と三段鉄砲である。
三段鉄砲は、鉄砲足軽が3列に並んで撃ったことになっているが、実際は恐らく鉄砲班を600程作り、一班に5丁を渡し射撃手、掃除、火薬詰め係、弾込め係と分担していたはずだ。
射撃をしたことない奴には分からないが、いきなり撃てと言われても、的を探すにそれなりに時間が掛かってい、気が付けば騎馬が目の前に成りかねない。
射撃手は撃ち終われば、次の標的を目で追っているから、弾込め済みの銃を貰えれば直ぐに射撃が出来るのだ。
次から次へと的を目で追っているから、タイムロスが無いのである。
それと、射撃はセンスである。
私はどやらこちらのセンスもあるらしが、ちゃんとコンバットシューティングの訓練にも参加している。
訓練を積むと、見たことへ撃つことが出来るのである。
9mm弾だと50発で10数ドルである。
500発撃っても1万円ちょっとである。
話が逸れたが、鳥居強右衛門のことは戦前は教科書に載っていたという。
"自らの命と引き換えに仲間を助ける"という大和民族なら誰でも出来ると思っている。
何と言っても我々のDNAに書き込まれていると思う。
素晴らしき先人を誇りに思うことこそが、日本再生の鍵であると信じる。

