我々は、本当の歴史を知らずに生活している。
日本がどれ程凄いかを知らずに、子供達に自虐史観を教え続け、日本という国が元気がない気がする。
何故、靖国神社に総理大臣が参拝することを、支那や半島に問題視されるのか理解できない。
政府もきっぱりと「内政干渉するな」と言い放てば済むことである。
"魏志倭人伝"と言うと、邪馬台国(ヤマドと読む)の畿内説と九州説ばかりであるが、実はもの凄い2世紀頃の日本人について書かれているのである。
魏志倭人伝は、晋朝の史家であった陳寿という人物が書によて書かれた私的な日記であったのだ。
詰まり、公文書では無いのである。
公文書と私文書では、当然公文書の方が信憑性が高いとされ信頼度が違いのだが、日本のおバカ歴史家は私文書を往々にして用いている。
例えば、お市の方であるが、通説(時代劇)では、お市の方は信長公の妹であり、浅井長政に嫁いで、お茶々、お初、御江代の三姉妹と小谷城上洛の折りに処刑された長子を生んだことになっている。
しかし、事実は、お市の方は信長公の従兄妹であると当時に、信長公の側室であり、お茶々は信長公の姫君であった。
浅井家にしてみれば、お市の方とお茶々の2人を人質に取ったことになり、安心感も格別であった。
この時代は、"処女"よりもお産経験のある女性の方が好まれた。
子供が産めることは証明されているからであった。
更に、江戸時代初期の大奥発行の公文書には、御台所である御江代の方の母お市、信長公の従兄妹と書かれている。
実際にお市の方の娘が生きていた時代に、間違いを公文書に書きますか???である。
さて、魏志倭人伝には、当時の日本の風俗習慣も書かれている。
一行の出発した郡から対馬まで千里で、対馬から上陸した辺りまでも千里と書かれている。
ここで注意なのだが、日本の一里は約4㎞であるが、支那の一里は約500mである。
博多だと対馬から500㎞はない!!!
旧唐書(唐時代に編纂された唐以前の歴史書)によると「倭国とは半島の付け根が国境」と書かれているので、そもそも出発点(釜山)が違っているのではないか。
先ず、2世紀の日本人は、男女間の差別は無く、席次も身分では無く年齢が重要視されていたという。
詰まり、その集落の長より、長老の方が上座という感じであろう・・・
更に、貴人に会ったときは、手を叩いたとなるが、これは、身分の高い人を見かけると、神社でしているように、柏手打つのと同じであろう。
更に、何とこの頃から長寿であったらしい。
寿命も百歳とまでは行かなくても、80歳か90歳くらいであろうと書かれている。
よく平均寿命と勘違いしている人が多いが、この頃の平均寿命は恐らく30代であったと思うが、これは新生児の死亡率が高かったからであり、大人になってしまうと長寿であったと思われる。
しかし、この時代は漁業を始め海へ漕ぎ出す男子が多かったから、海の死亡事故もそれなりにあったと思われる。
更に、貴人は7、8名の妻を持ち、一般人でも5、6人の妻を娶っていたというが、女同士の嫉妬もなく生活を営んでいたと書かれている。
詰まり、大家族であったということである。
誤解無きように書くが、この時代はどうしても女性の数の方が圧倒的に多かった。
男子は成長するまでに女子より死にやすく、成人する頃には同年代の男女比は女性の方が多い。
更に狩りや漁業での死亡事故も男性であるし、戦争が起これば男女比はあっと間に女性の方が多くなるのである。
考えてみれば、この時代は公害も無く、身体に有害な添加物もなく、完全に無農薬のオーガニックを食べていたのである!!!
それも魚介類を中心に米を食べていたのだから、現代人より健康食出会ったと言える。
魏志倭人伝より数千年昔、縄文文明に花を開かせていた日本人は、世界各地へ足を伸ばしていたという。
縄文人のDNAの分布からも分かっているというのだ。
更に、南米エクアドル、カナダ、アメリカ、アフリカからも縄文土器が発見されているという・・・
定説の人類はアフリカから世界に散らばった説が、間違いであった物的証拠では無いか?
こうなると"竹内文書"の「宇宙から天皇が降臨し、五色人を作り、世界統治をしていた」の方が、信憑性を帯びてくるではないか!!!
現行の自虐史観では、"文明の行き着くどん詰まりが日本"となっているが、実際は、文明は日本から広まったと言う方が正しい物証が数多く出土している。
DNA分布も縄文人が大陸へ渡っと考える方が自然という。
そもそも黄河文明はCaucasian(白人)の文明であり、それが倭人が作った揚子江文明と戦ったのが、弥生時代である。
因みに黄河文明より縄文文明の方が10000年近く古いのである。
"鎌倉殿の13人"も関係しているのであるが、源義経が平泉で自害してなく、蝦夷地まで逃れて大陸渡り、チンギス・ハーンに成ったという義経北方説だが、どうもDNA解析からすると可能性はあるというのだ。
義経の時代は、蝦夷地(北海道)にはアイヌ人は未だいない。
アイヌ人は鎌倉時代の中期に北方よりわたってきた渡来人である。
しかし、現在においては彼らも日本人で有ることは間違いない。
満州から北のシベリアへ掛けて、縄文人型のDNAが多いのである・・・
正に、歴史は浪漫である。
我々は、ご先祖様に胸を張れることをしているのであろうか?
こままの日本を次の世代へ渡せるのであろうか?
新たな日本の歴史を作っているのは我々である。
将来の日本人へ恥ずかしくない日本を作る義務があると思う!!!
頑張ろう!!!