先日、"愛の流刑地"を観た。
映画は平成19年(2007)冬の公開であり、確か私は、この映画を映画館へ観に行った記憶がある。
その半年後ぐらいにTV版が放映された。
映画版は、豊川悦司と寺島しのぶのコンビで、TV版が岸谷五朗と高岡早紀のコンビであった。
TV版から観たのだが、失楽園を観た後であったので、何かガッカリしたした作品であった。
岸谷五朗も頑張ってはいたが、やはり役不足感が否めなかった。
事実、劇中に出版社の役員とバーのママのシーンがあったが、それが何と古谷一行氏と川島なお美女史であった。
そのシーンは主人公より、失楽園コンビニ目が行ってしまう・・・
昭和53年に製作された映画水戸黄門だが、お馴染み東野英治郎主演であったが、そこに何と世界の三船敏郎氏が出演していて、三船敏郎氏が画面に入っただけで、画面が締まって見えたのだ!!!
大勢居る役者の中でも、三船敏郎は目立っていた。
「これが世界に通用する役者のオーラか」と納得したのを覚えている。
古谷一行も、画面に出るとその場が締まって見えるし、安定感がある役者であると今更ながらに感じた。
映画もTV版も原作より男性の年齢が若いのであるが、現在は私の年齢が原作に近いため、観ていて違和感を覚えるのである。
「40代のSEXって、違うよな〜」とあるが、女性は30歳を過ぎると、「この男が最後の男かも・・・」と思うらしい。
私個人的には、SEXが変わってきたのはここ数年である。
それまでは、パワーに任せてガンガンであったが、精力的にそれが難しくなってくると、方法が変わってくるのが自然であろうと思っている。
だから、失楽園でも愛の流刑地でも、男は50代半ばにならなければ、主人公の気持ちが体現できないと妙に納得した。
USAでは、女性は何歳になっても"胸の谷間勝負"的なものがある。
動物学的には、動物は通常雌は、常に性器を見せている状態であり、雄は何時が交尾に最適なのかが分かる仕組みだという。
チンパンジーだと、その性器が見づらいから、交尾の折は何と雌の性器が腫れ上がったようになり、交尾を雄に促すようになっているという。
しかし、人間は直立歩行するためにその性器が見えなくなった。
更に服を着るようになり余計に分からないようになっている。
動物界から観ても異様に大きな胸(貧乳の人ごめんなさい)なのが、人間であるという・・・
詰まり、尻で交尾をアピールできなくなったので、胸の谷間で尻を連想させるというのだ。
月亭可朝の有名な歌に"嘆きのボイン"というのがある。
「ボインは赤ちゃんのためにあるんやで〜、お父ちゃんのためとちゃうんやで〜♬」であるが、実は、お父ちゃんのためにあるから、赤ちゃんが生まれたのである。
まあ、"鶏が先か、卵が先か"と同じ論であることは間違いない。
アルゼンチンタンゴのミロンガ(ダンスパーティー)などに行くと、お年を召した女性の方々もセクシーさをアピールしているのが、楽しいのである。
所詮この世は男と女である。
お互い楽しまねば何が面白いのか?と私は思っている。
若い女性は価値があると思っている人が多いが、私は"若い"だけでは楽しくないと思う。
何故なら、人生経験が無いからと言える。
女性も、男性遍歴や艱難辛苦等々が女性自身を磨いて"玉"となり輝くと思うのだ。
その輝きに色気が混ざり、"妖艶"さを放つのだと思う。
妖艶な美人は、20代、30代では成れない!!!
そのエロスを理解できない男は、捨ててしまえば良いのだ。
失楽園と愛の流刑地の女性の年齢は、凛子は39歳で冬香は原作では36歳である。
妖艶さにはほど遠いが、そこへ向かってる感がある女性である。
両者とも"死"を選ぶのであるが、それではリンゴが熟す前に食べてしまうのと同じで有ると思う・・・
詰まり、青リンゴ状態だ。
男性の方は両者とも55歳前後、現在の私とほぼ同じ歳である。
自分の肉体的、精力的に落ちてきたからこそ、心の繋がりが大切という転換期の様な気がする。
久木祥一郎(失楽園)は、凛子を愛していたからこそ彼女との心中を選び、一報の村尾菊治は、冬香を愛しているからこそ、彼女の「殺して」という願いを叶えてやったのである。
私ならどうする?
私は心中をしないし、まして相手を殺すこともしない。
何故なら、その先の愛している女性が妖艶になっていく様が観たいからである。
最後に、TV版と映画版どちらが良いかには言及しなでおこう・・・
もし皆さんが観る機会があれば、その時の判断に任せます。
ただ、"愛の流刑地"と愛したが故に、冬香によって他の女性の手の届かぬ刑務所に村尾を送ることであったのだ。
「最初の女には成れないが、最後の女には成れるかも」なのだ。
"過ぎたるは及ばざるが如し"であり、愛もほどほどが一番なのだが、それが出来ないのも愛なのであろう。