河津桜が終わって、いよいよ桜本番の季節到来である。
ここ数年、支那風邪で満足に花見も出来ない状況であるが、自己免疫力Downの要因は、ストレスである。
社会的にステイホームやマンボウといった過度なストレスを掛けられたら、健康な人でも病気になってしまう。
そこで明日は天気も良いことから。独りツーリングを企画した。
近場とすれば、秩父や奥多摩であるが、一桁であるため、路面凍結島のリスクがあるし、寒いし・・・で断念した。
そこで、持ち上がったのが、茨城方面である。
霞ヶ浦湖畔が春の香りがしそうである。
伊豆方面も考えたが、土曜日の伊豆方面は、自殺行為であるし、帰りの国道135号線の渋滞は地獄である。
回避ルートとして伊豆スカイラインがあるのだが、標高が1000m辺りを走るので、これまた寒い〜のだ。
箱根辺りの気温も一桁みたいだし、更に明日は冷えると訊いた・・・
その点、千葉茨城方面は温かいし、伊豆ほど混んで(勝手な推測)いなと思う。
そう言えば、鎌倉殿の13人で、頼朝公が佐竹征伐に乗り出すシーンがあった。
鎌倉から常陸太田辺りまでの移動である。
現代なら鎌倉から東京湾添いに千葉に抜けてから一気に茨城県であるが、この当時、東京湾は今より大きかったのだ。
埼玉県の川口市まで行かねば茨城方面に行けなかった。
だって、川口と地名からお分かりの通り、昔は河口であったのだ。
そう、千代田区、中央区を始め隅田川の近辺は海の中であった。
そして、湿地帯が広範囲に広がっていたのだ!!!
逆に言えば、鎌倉からなら船で茨城を目指した方が早かったはずだ。
潮流の関係で、三浦半島を少し南下すれば黒潮に乗れるため、一気に外房へ行けるのだ。
因みに、この当時の利根川は今の位置ではなく、江戸湾(現東京湾)に流れ込んでいたのだ。
現在の銚子付近に河を動かしたのは、世界一の金持ちであった徳川家康公である。
利根川を千葉県と茨城県の県境に移すことにより、江戸湾の水量を減らし、干拓しやすくしたのだ。
更に、河と河を横に繋ぐ水路網を整備したことにより、土豪等の反乱に素早く対処できたため、関東制圧に成功したのだ。
天下泰平の世になれば、軍船用に作った水路が民間に開放され、多くの船が大量の荷を積み江戸市中に物資を運び込んだのだ。
当時は、自動車が無いのだから、大量の荷物は船によって運ばれたのである。
余談であるが、大都市の鉄道網は環状線があって、そこから放射状に鉄道が延びているのが分かると思う。
東京なら、山手線の主要駅から私鉄が放射線状に延びているのだが、これは都市部で排出される大量のウンコを運ぶために発展したのをご存じか?
今でこそ、下水道を流れて下水処理場へいくのであるが、明治時代は下水などないから、くみ取り式トイレであった。
そこから大量の糞尿が採取されるが、これを郊外の畑の肥料にするために鉄道が使われたのが始まりらしい・・・
日本は、江戸時代は100%リサイクル社会であった。
だから、欧米と違い、糞尿を窓から捨てたり、川に流したりせずに、肥料として使っていた。
日本の"河=ドブ川"にしたのは戦後のGGQの奴らのせいである。
因みに、糞尿はそのままでは肥料として使えなかったから、肥だめで枯れ葉とかと混ぜながら発酵させたらしい・・・
良く聞いた話では、初秋に散った葉を山ほど集めて肥だめの液を大量に撒いたそうだ。
すると、そこにカブトムシが卵を産み付け、孵化した幼虫がその中で腐葉土を食べて、黒土へと変え肥沃な土が出来たという。
カブトムシの幼虫の糞が黒土なのである。
こうやって、東京郊外の山の手は関東ローム層とう不毛の大地を肥沃な農地へと変貌したという。
その責任者が、皆さんもご存じ大岡越前守忠相であった。
我が家の庭も、シャベルで30㎝ほど掘ると赤土が出てくるのだ。
子供の頃良く掘ったものである。
東京の西側は、関東ローム層の上にあるため、実は地震に強いのである。
話を戻すが、この駅は何処だと思いますか?
この写真は(ネットから拝借)なんと品川駅である。
駅の直ぐ側まで海が迫っている。
写真の左側が品川プリンスホテルがある方である。
現在、どれ程埋め立てられているのかがお分かりだと思う。
そう言った歴史を知って旅をすれば、更に充実した時を過ごせるはずだ。
桜が咲く季節。
花の命は短いし、我々の命も短い。
だから、楽しめなのだ。
「化天の内を比ぶれば夢幻の如く也」なのである。
だからこそ、この一瞬を頑張って生きる必要があると私は思う。