鎌倉殿の13人が流行っているようであるが、私の友人等からもよく話が出るが、皆大きな勘違いがあるのここで一言。
北条家の連中が良く言う「平家の専横」であるが、北条家はバリバリの平氏である。
平将門の乱を沈めた平貞盛の子孫が、北条を始めとして関東に何家あり、伊勢まで行った伊勢平家である。
この伊勢平氏家から平清盛が出てくるのである。
"源平合戦"とは良く言うが、これは"源氏対平家"であり、源氏対"平氏"ではないのである。
鎌倉幕府の最高権力職である執権職は、代々北条一門から排出されていた。
詰まり、鎌倉幕府は平氏の幕府で有ったのである。
又、織田信長公も平氏である。
実は、源氏より平氏の方が教養があったのである・・・
源平合戦は、源氏の総力と伊勢平家の戦いであったと言える。
板東武者はほぼ平氏だと考えて良いぐらいである。
実は、頭が源頼朝と平宗盛(入道殿は入滅したため)であったが、実際に戦った将兵は源頼朝側が平氏、平宗盛側が源氏であったようである。
又、木曽義仲が京に攻め入ったときに、平家一門が逃げたのをもって都落ちというが、これも違う。
この時期の日本の都は、福原(現神戸)であった。
源平合戦の最終的勝者は、源頼朝というが、これも間違いで、最終的勝者は平氏であったのだ。
頼朝の死因は落馬であるが、これも歴史の常識であるが、武将が"落馬で死んだ"は"暗殺された"を意味する。
何故暗殺をする必要があったのか?又、犯人は誰か?
これは、古代エジプト18王朝末期のツタンカーメン王暗殺と同じ構図である。
ツタンカーメンは、何故殺されたのか?
答えは明白である。
これはツタンカーメン王の黄金の椅子である。
王と妃が仲良く描かれているが、この中央の上部の太陽のような飾りを観て欲しい。
これは"アトン神"の印で有り、父アメンホテプ4世ことアクエンアテン王は、宗教改革を行いそれまでの多神教から一神教のアテン神の崇拝を命じたのである。
アマルナ改革はイクナートンが亡くなったと同時に終わり、元のアメンラー神に戻された。
ツタンカーメンとは、ツタンク・アメンであり、アメン神を崇めると言う意味であったが、"三つ子の魂百まで"というから、当然彼はアテン神信仰を捨てていなかった。
その証拠がこの椅子である。
普通なら捨てるよな〜
彼は、再びアトン信仰復活を画策していたと私は考えている。
だから、暗殺犯は、全国民なのである。
だから、彼の叔父のアイが、ツタンカーメンを殺して次期国王になっても混乱が無かったことも論拠である。
源頼朝暗殺と、彼の子源頼家、源実朝暗殺も、板東武者の願いだったこそ、誰も問題視していなかったのである。
そもそも、鶴岡八幡宮で祭礼に出ていて途中の銀杏の木の賭け下から行基が刃物を持って切りつけるって、通常有り得ないでしょう?
警備担当者は切腹であろう!!!
しかし、誰も、何も無かったように鎌倉幕府は続くのであった・・・
何故か?
何故、源義経に武士団は誰も味方しなかったのか?と疑問に思いませんか?
答は簡単で、それまで武士の土地所有は認められていなかたのである。
耕した新田や荘園の名義を、名義料を支払って有力貴族にしなければ、取り上げられてしまっていたのだ。
その武士の団の悲願であった土地の所有を、鎌倉幕府は公文書で認めたのである。
だから、鎌倉幕府に絶対の忠誠を誓ったのはお分かりだと思う。
小松当たりの弁慶の勧進帳の一幕も、あれはやらせで、義経一行を奥州の平泉に誘い込み、平泉もろとも滅ぼす大作戦であったのであった。
平泉は八幡太郎義家公が血反吐を吐いた場所で、朝廷は義家公に渡すぐらいなら身分は低くても藤原にといって藤原清衡に渡してしまったのだ。
源氏にしてみれば絶対に許せないのは奥州藤原なのであった。
因みに、源氏のヒーローである八幡太郎義家公の"義"と"家"の字は、後の室町幕府、江戸幕府の公方の名に多く使われたのである。
この奥州藤原討伐の役職として"征夷大将軍"であって、征夷大将軍が幕府の長は間違った認識である。
私はこれは明治政府の陰謀だと思っている。
徳川宗家は、当然太政大臣や左大臣等を歴任している。
だからこそ、徳川宗家は、征夷大将軍という役職の低い立場であったと言うことを強調する必要があったのである。
頼朝暗殺の原因は、最終的に頼朝は娘を禁裏へ送り、天皇の后としてその子が天皇となって行われる摂関政治を目指したからだと言われている。
板東武者は、死に物狂いで戦い、新しき武家の世を作り始めた矢先に、そのトップが旧態依然としたやり方を目指したことが許せなかったに違いない。
だからこそ、源氏に嫡流根絶やしを敢行したのだと思うし、その結果、皆が黙して語らずであったのだ。
そう、源頼朝の暗殺者は、坂東武士団であったのである。
この一連の流れを知った上で、鎌倉殿の13人を観れば、より楽しく観られると思う。
