今日から日本本来の暦である太陽太陰暦では新年である。

神事や、"占いの令和4年"は、本日から来年の節分までである。

四柱推命も本日から新年である。

初詣も、本日以降に行ってください!!!

令和4年の恵方は、北北西である。

 

暦とは、人間が生きて行くには必要不可欠な物である。

実は、日本の暦の歴史がヤバいのである。

縄文文明で既に使われていたと言う。

これは、言わずと知れた銅鐸であるが、馬鹿な学者共はこれを"鐘"だと言っているが、実はこれは我々の先祖が使っていた暦であったという。

詳しくは、はやし浩司先生が解説しているので動画を観て欲しい!!!

江戸時代に暦編纂に命を掛けた天才数学者や天文学者の話は、映画"天地明察"をみればお分かりである。

銅鐸の上部左右に空いている穴は、反対側にも空いていて、ここを覗くことによって水平を図ったという。

詰まり手前の穴から覗いて、反対側の穴がピタリと重なっていれば水平でるというとである。

太古は3年を1周期としていたらしい。

この銅鐸一つ観ても、日本人のきめ細かさが滲み出ていると思いませんか?

 

さて、日本政府はユネスコに対して、佐渡金山を世界遺産に推薦しているが、私は何故そんな怪しい組織に推薦して、世界遺産となって喜ぶのかが理解できない。

富士山や東照宮、中尊寺など、世界遺産などどうでも良いことで、わざわざ大和民族のレベルを下世話なランクまで落とす必要があるのか?

それより、何故東照宮を日光に建てなのか?や中尊寺を建立した理由や今に至るまで何故残っていたのかを、我々日本人が勉強していない方が問題である。

 

NHK大河ドラマの"鎌倉殿の13人"にも関係していると思うから少し触れるとしよう。

中尊寺とは平泉にある寺で、その中の金色堂が素晴らしいとされている。

これは奥州藤原初代の藤原清衡が建立した物であるとされるが、この奥州藤原は、元々朝廷に使える下級官吏であった。

同じ藤原氏でも摂関家と違って、身分が低かった。

そう、藤原と言っても摂関家に近くなければただの人である。

これも鑑みて「平家になければ人にあらず」と何処が違うのか?と疑問に思うべきである。

 

藤原氏は、天智天皇が中臣鎌足に藤原氏を与えたことに始まっているとされるが、私は嘘であると確信している。

もし、中臣鎌足が藤原鎌足になっていたならば、後の天皇が住まわれる藤原京は、臣下の名を冠した都となる。

有り得ないのは、常識的に理解できるはずである。

これは後の藤原不比等が、"藤原"を下賜されて、後の格付けで大風呂敷を広げたに違いない!!!

 

話を戻すと、要するに源氏、平氏、藤原氏も都にいては下級官吏であるので、賢い輩は地方に行くのだ。

"国守"として地方に赴き、公金を使って新田開発して、任期が終われば私有地化してそのまま住み続けたのが、武士の始まりである。

公金使って私腹を肥やすって、今だけの話では無いのだ・・・

更に、"荘園"という脱税システムを作って、摂関家が脱税をして莫大な富を蓄えたが、その一方、公地公民で本来天皇に入るはずの税が藤原摂関に奪われ貧乏になったのである。

映画羅生門を観てもお分かりであろう。

羅生門とは本来都の入口の立派な門であったのが、修理すら出来ずに朽ちていき、盗賊や乞食の住処となっていたのだ。

 

関東地方へやって来て今の茨城辺りを本拠地として勢力を伸ばしたのが平氏であった。

そんな時代に奥州へ赴いた役人が、藤原清衡の父親である藤原経清(つねきよ)であった。

その時に、奥州の大豪族であった安倍氏の富(砂金)に目を付けた陸奥守が、安倍氏を騙し討ちして始まったのが前九年の役である。

最終的に朝廷軍を率いたのが、源頼義、源義家(八幡太郎)親子であり、前九年の役、後三年の役を制して奥州を手に入れたが、朝廷は源氏の苦労に報いずに、奥州を藤原清衡に渡してしまったのだ・・・

この出来事が、鎌倉殿の奥州征伐の布石となっていた。

詳しくは、別の回にするとして、問題は、奥州征伐の道具に弟の九郎義経を利用して、全国指名手配犯を匿った罪で、成敗する口実を得て、まんまと"征夷大将軍"(東北方面最高司令官)を得たのだ。

現代人はこの役職が武家の棟梁と勝手に思い込んでいるだけである。

しかし、奥州藤原氏を滅ぼしても、金色堂は無傷であった。

何故か?

これが日本人の信仰の根底にある"怨霊"で、憤死した者の霊は、怨霊となって祟るのである。

だからこそ、金色堂はそのまま残し、藤原歴代の霊には栄耀栄華の夢を見続けて貰っているのである・・・

 

さて、話を佐渡の金山に戻すと、教科書は学校では習わない佐渡金山である。

佐渡の金山のお陰で、徳川家康公は、当時世界一の大金持ちとなり、イギリス、フランス、スペイン、オーストリアを足してもまだ徳川の方が金持ちであった。

だって、世界の金の1/3を一人で持っていたのだから・・・

 

日本人として誇るべきは、ヨーロッパの無能王家共と違って、徳川家康公はその金を自分のためで無く、庶民の為に使ったのである!!!!

だから、元禄時代になると、町人文化が華開くのである。

江戸時代まで、世界一幸せな"平民は日本人"と言われているほどである。

ヨーロッパで庶民の文化で今あるものってなに?

絵画や音楽は、全て王侯貴族のものであった。

私の好きな曲に、ブルンデンブルク協奏曲があるのだが、これはバッハが作曲したのだが、これはブルンデンブルク辺境伯爵が、バッハを自らの城に呼びつけて「余のために曲を作れ」と命じたから今存在しているのだ。

そして、毎夜、毎朝、バッハに演奏させていたのだ。

庶民は奴隷であったから、文化など無かったが、日本は違う。

有り余る金で、庶民生活が豊かになり、子供を寺子屋に通わせたり、色町文化、特にセックス48手を作り上げ、浮世絵や瓦版、歌舞伎、落語等々庶民が文化を謳歌していた。

 

これで、明治維新で文明開化って、意味分かりますか?

江戸末期の識字率は全国民の85%を超えていて、当時の日の沈まぬ帝国といえれた大英帝国の全国民の識字率は14%・・・

日本に文明が無かった????

世界最高峰の文化だったでしょう?

大学は無かったが、キレキレ幕臣官僚は、大学での欧米の官僚と五分以上に渡り合えている。

今より凄いじゃないの!!!!

江戸時代までは、男女同権という意識は日本に存在すらしていなかった。

明治時代に男尊女卑の概念が欧米から輸入されたのだ。

ヨーロッパでは、女性は男性の持ち物であった。

これは、支那も朝鮮も同じで、女性の権利など存在していなかったが、日本は違う。

人間同権であり、それぞれ役割分担があり、男女差による"誰が偉い"(上様や殿様は別)という概念は存在していなかった。

我が国の最高神は天照大神であり、女性である!!!

神々の為のお神楽は、巫女がまっていたし、神々との対話するのも女性の役目であった。

江戸では、馬鹿亭主には、奥さんが三行半を叩き付けていたし・・・

大奥総取締役は老中と同じ格式であったし・・・

 

それを男だの女だのと分けたのは明治時代からであった・・・

 

日本とヨーロッパ、どちらの文明が上かこれだけでもお分かりであろう・・・

そんな奴らの作った世界遺産を、何故我々が喜ぶ必要がるの?

 

本当に良い者は、他人には秘密で、内々で楽しめば良いだけであろう?

 

歴史を学び、将来を考える、正に温故知新こそが、我々の心を豊かにしてくれると思う。