「ぼーとしてんじゃねぇよ」とは、NHKで放映されている"チコちゃん"の台詞だが、「私はぼーと観てんじゃねよ!!!」と多くの視聴者に言いたい。

何故ならば、チコちゃんは、上手に嘘を吐いているからである・・・

 

今日、たまたま母が見ていたのでその音が耳に入ってしまった。

"奥さん"の呼び方が、日本には多くある。

妻、奥さん、嫁、家内、カミさん等々だが、大東文化大学の教授が解説していたが、これが何を思ったのか無知なのか、生徒が気の毒と思える。

現行の政府の書類上、法律上は"妻"が正しいから、「これらの呼び方で正しいのは〜妻〜」とチコちゃんは言っていたが、果たしてそうであろうか?

そもそも言葉に正しいも間違いもあるのか?

皆さんは、"妻、女房、奥さん、嫁、家内、カミさん"の意味として、どれも同じだと思いませんか?

同じだと思ったら、それが日本語であり、正しいも、間違いも無いのである。

それを言ったら、先祖代々東京に住んで約500年の私から言えば、正しい日本語(江戸弁〜東京弁)を発音できている日本人は少ないのである。

でも、会話は通じているし、地方へ行けば御当地弁があって大体会話が成立できるではないか!!!

詰まり、正しい日本語など無いのだが、便宜上東京弁を日本語の元としているだけである。

 

教授曰く、法律上は妻のみが正しい。

奥さんとは、昔の奥方様から来ている呼び方で、臣下の呼び方だという。

女房とは、昔の奥向きに居た女中を指す言葉で、因みに房とは部屋のいみである。

詰まり、内の女房ですというと、私の女中ですという意味だという。

嫁とは、家に来てくれた息子の妻を舅姑が呼ぶ呼称だという。

家内とは、家の中という意味で、男女同権の現代には如何なものか?

カミさんも上様から来ていて、男女同権の時代に合わない

等々馬鹿丸出しだ。

では、奥方が夫を呼ぶ「内の主人が・・・」はどうなるの?

お互いを敬いあって何が悪いのか?

そもそも、歴史的に日本には男尊女卑の考え方はなかった。

最高神は天照大神であり、女神であるし、神々との対話は女性しか出来ない。

男尊女卑とは、明治以降に西洋文明からもたらされた思想である。

 

家内とカミさんの言葉は実はかなり古いと訊いたことがある。

古いとは何百年前のレベルでなく、縄文時代からだそうだ・・・

東日本ではカミさんで、魅し日本では家内と呼んでいたそうだ。

縄文時代も、西日本では稲作がさかんであり、東日本では南太平洋付近まで漁に行っていたというのだ。

畑仕事や狩猟をするのは、男の仕事で、畑仕事の手伝いや家事全般は女性の仕事というように、仕事を男女で分けていた。

田植えは女性の仕事であったらしい・・・

これも意味があり、田植えは神々との対話であるとされたため、神々と対話出来るのは女性であったためである。

だから、男性陣は笛太鼓で盛大に女性を応援していたのである。

 

カミさんとは、何ヶ月も漁に出ている男性陣は、当然海が荒れて死ぬ思いをしてきたときに、神々に無事を祈るのと同時に、細君の顔が脳裏に浮かんでも不思議でない。

家に帰ると、笑顔で出迎えてくれれば、彼女の顔が神々しく見えたに違いないのだ。

 

詰まり、現代人は、縄文じんと比べると、"生きる"ことが安直になったのかもしれない・・・

我々レベルでは頑張っていても、ご先祖に比べれば比では無いのかもしれない。

それこそ、手に手を取って生き抜いていたのかも知れない。

 

伊豆の神津島産の黒曜石が、日本各地で見付かっているというから、縄文時代の物流を侮ってはならないし、彼らの行動範囲も我々の常識を遥かに超えていたという・・・

ペルーで縄文土器の破片が見付かっているのだ。

 

黒曜石でナイフを作ると、もの凄い切れ味に驚くという・・・

インカ人やマヤ人達は、黒曜石製の武器を使っていた・・・

鉄の剣より堅いかも知れない・・・

が、難点は加工が難しいことであるので、弥生時代に鉄文明へ進化したので黒曜石は次第に使われなくなっていたらしい。

 

我々が普段何気なく使っている言葉の歴史を紐解けば、それが何万年も前から使われていたことが分かる。

その単語を簡単に捨てられますか?

 

NHKを信用してはいけない!!!

信用する前に、昔の報道を思い出して欲しい!!!

石油は30年で枯渇すると、オイルショック以降報道してきたがどうなった?

光化学スモッグ等の大気汚染で、青空が見えなくなるといったが、12月26日現在、真っ青な青空が広がっているが・・・

地球温暖化も、今までの法則に則れば、大誤報なのか、大捏造なのかであろう・・・

 

結局は、我々が無知ではならいと言うことである。

 

先日、私の人生の中でも好きな映画である一本を観直してみた。

アル・パチーノ主演の"スカーフェイス"である。

これを初めて映画館で観たのは高校生ぐらいであったと思うが、当時は衝撃的なシーン(銃撃戦)とうが凄かった記憶があるし、貧乏で惨めなキューバ移民がフロリダでギャングとしてのし上がっていくサクセスストーリーも良かった。

ミシェル・ファイファー演じたエルビラも美人で良かった。

しかし、ストーリーは峠を登り切り、お約束通りに下り坂で最終的には、トニー・モンタナ(パチーノ)とエルビラとの破局、そして彼の死で幕を閉じる。

何だか意味が分かったようで分からなかった記憶がある。

 

しかし、齢56歳になった今観ると、考えさせられる内容に驚く。

貧乏からドラッグディラーとして成功し、巨万の富を得たのに、最後の破局である。

ボスを殺してまで手に入れた美人で一目惚れをした女性との破局!!!

 

ドラえもんののび太も同じなのだが、結局は、便利な道具や金も、それを使う人間次第であるということである。

詰まり、学問であり教養が人間にとっては、金以上に大切であるのだ。

昔読んだ漫画だが、原作池田悦子先生の"デイモスの花嫁"で心に残っている話がある。

ある資産家女性と結婚した貧乏画家が、妻を殺して恋人であったお手伝い(デイモスの言によってデブになり住み込みのお手伝いとして家に入っていた)と結ばれる話である。

デブになっていたのは、世間の目を眩ますためで、夫人を殺した後はダイエットをして元の体型に戻り、夫人と入れ替わって結婚生活を送るのであるが、最期にデイモスが「精々得た金で贅沢をすればよい。だが2年もすればそれにも飽きるが、己の才能が枯渇したことに気が付けば辛い人生が待っている」的な事を言っていた・・・

詰まり、「人間金じゃ無いよ」なのである。

 

スカーフェイスの話も、主人公のトニー・モンタナは、生き残ることには長けていたが、それだけで、教育もまともに受けていないので、無知無教養なのである。

それが、巨万の富を得たらどうなるのか?

妻との会話もないはずだ。

結婚当初は、散在とSEXで十分であろうが、それにも飽きたらどうなる?

人間を輝かせるのは金で無く、教養なのである。

"話していて楽しい人"が魅力的な人ではないのか?

友人とスカーフェイスの話をした。

「私なら、ドラッグディラーとして巨万の富を得たら、組織を徐々に合法化していき、最終的にはドラッグディラーの権利を誰かに売るよ」と言ったら、友人曰く「トニーモンタナにはそれだけの教養が無かったんだよ・・・」であった。

 

そう、今更ながらに福沢諭吉翁の"学問のすゝめ"の偉大さを痛感した。

 

我々1人1人が生涯学ぶことを止めなければ、政府にも欺されないし、NHKにも欺されないのである!!!

学問を止めたときに、愚民化するのである!!!

 

この正月は"学問のすゝめ"と洒落込んでみたらどうであろうか?