聖徳太子が制定された17条の憲法だが、これも私を含め多くの人が誤解している。

第一条:"以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成"である。

現代語訳すると"和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん"でるが、これでも難しいし、誤訳している人も多いので簡単に説明すると、"和"を大切しろ、この世に全てを悟った人は居ないのであるから、多くの人々ととことん話し合いなさい。その際、"馬鹿なくせに黙ってろ"てきな、若いくせに、女のくせ(こう言う二アンス)に等々を言ってはならない。とある。

詰まり、"和を重んじろ"とは、とことん話し合えでり、「ここで私だけ反対意見を出したら、和を乱すかも〜」的なことを思う必要は無いということである。

但し、一旦決まれば、自分が反対であっても決まりに従うである。

今の国政に鑑みると、如何に国会議員共が猿同然、おっと猿に失礼(猿はボスの下に一致団結)であるから、猿以下であるかお分かりの筈だ・・・

これを戦国時代で考えると、桶狭間直前の信長公であろう。

清洲城中では、徹底抗戦派、籠城派、降伏派と喧々囂々であったが、信長公が愛していた敦盛を一差し舞ってから「出陣!!!!」と声を上げれば、抗戦派、籠城派、降伏派も公の前に集まり、命がけで戦ったのである。

これが、17条の憲法である。

しかし、この第一条を儒教から来たという間抜けなことを言う馬鹿学者がいる。

儒教ならば話し合いなどせずに、師に従う教えである!!!

 

だからこそ、"大和"と書いて"やまと"という国名にしたのだ。

"大きな和"が、我々大和民族なのである!!!!

因みに、沖縄も実は"大倭"(おおきなわ)だというし、琉球も正しくは"龍の宮"と書いて龍宮であったという。

昔の沖縄の人が"やまとんちゅう"と本土人のことを呼んでいたが、これは歴史を忘れた人の悲しい姿で、沖縄人も大和民族であり、縄文人であるのだ。

正に、大和なのだ!!!

これは、与那国島にある海底遺跡なのだが、水深25メートぐらいに有るのだが、縄文時代には地上にあったのだが、約10800年前に地球の地表の多くの氷が溶けたので海水面が約200メートル上がったという。

 

大分話が逸れたが、戦後の馬鹿教育のせいで、現代日本人は17条の憲法の精神を忘れている。

精根尽きるまでとことん話し合い、よりよい結果を生む努力をしていない。

その結果、詰まらぬ忖度をしたり、後で「俺は反対したんだ」とかいう無責任な発言が横行している。

 

権力者(総理大臣を初めとした大臣連中)が、己の責任を取らずに、奴らが"今だけ、金だけ、自分だけ"の令和に流行っている"三茸"に走っている。

 

戦国時代、負ければ"殿様は死"であった・・・

家臣を死なせた罪、領民を苦しめた罪の責任を取ったのだ!!!

 

ここで凄い人と言えば、備中高松城城主清水宗治であった。

羽柴筑前守秀吉に、川をせき止められ高松城が湖上の島のようになっていた。

この時、筑前守は、百姓衆に土嚢を230万個作らせ、それを目が飛び出るような金で買い取ったという。

これは、水攻めで農地を失った領民への補償も兼ねていたのだ。

その時に、「上様、無念の御最期、惟任日向守御謀反」という一報を受け取った・・・

上様のご無念を晴らす為に、早急に京都へ引き返さねばならないが、いきなり引いたのでは、敵に追撃されてしまう。

そこで、高松城へ使者を送り「明後日上様御着陣、そうなればお前達、家族全て皆殺しになるであろう。が、御着陣前に降伏したのであれば将兵とその家族の命は筑前守が預かるが、条件は城主清水宗治1人の切腹」であった。

 

さて、皆さんが清水宗治侯であれば、どうします?

これが、正に城主、領主の責任の取り方である。

船で筑前守人智近くへ漕ぎ出し、見事な切腹であったという。

秀吉は、その敵ながら見事な切腹に感動し、武士(もののふ)とはこうありたいと言ったという・・・

それ以降、武士の切腹の作法は、清水宗治流となったという。

「獅子は死して皮を残し、人は死して名を残す」であった。

 

今の政治家は彼を手本とすべきなのだ!!!

 

そこからが、有名な中国大返しである。

これも馬鹿な学者は「あの距離を短期間で移動できる筈がない」というが、本当に馬鹿で日本の教育界の衰退を見るかのようだ。

これは、人生に一度有るか無いかの大チャンスであう。

宝くじ100億円当たるより凄いのだよ!!!

だって、何処かの県単位貰えるかも知れないんだから!!!

皆さんだって、"大名になれるかも"なら、火事場の馬鹿力を発揮できるはずだ!!!

ただの大名であり軍団長であった、筑前守秀吉が、上様の仇を奉じ、天下人になれば自ずと、自分たちの身分も上がるのは誰の目からみて確実であった。

加藤清正、福島正則、石田三成等も、その後の活躍で大名となっている。

 

そして京都の山崎で両者がぶつかるのだが、勝敗は直ぐに決したらしい・・・

 

さて、惟任日向守(明智光秀)は、どのような思いであったのか?

私は、"明智光秀=天海僧正"説を支持している。

 

日光東照宮を過ぎてからいろは坂を上がっていくと、"明智平"がある。

何故、東照宮の裏手に明智?となりませんか?

多くの歴史作家や大河ドラマは、明智光秀を織田信長公より年上としているが、家臣の書いた手記によると公と光秀の仲の良さが書かれ居るが、その雰囲気が上様が年上で光秀が年下の方が自然と私には感じられるのである。

又、家康公が安土城を訪れた際の接待が気に入らないという言って、上様に人前で殴る蹴るをされて事は、山岡荘八の創作の恐れがあり、明智家に伝わる文書には書かれていないという。

 

最期に戦国時代の書物のベストセラーは、"孫子の兵法書"であり、江戸時代のベストセラーは武鏡書であったという。

武鑑書とは、全国の大名旗本の領地、家紋、家老の名等が書かれている書物で、現代で言えば"会社四季報"の様な物である。

"暴れん坊将軍"で、「俺は貧乏旗本の三男坊で、徳田新之介だ」とう嘘は直ぐに見破られてしまう・・・

 

では、通説通りの"本能寺の変"だと不思議なことがあるのであるが、それは次回としましょう。

 

つづく