織田信長公とう希代の英雄は、我々多くの日本人が愛する人だと思う。

もし彼が現代に蘇ったら、恐らく永田町、霞ヶ関辺りは粛清の嵐だと思うし、支那をウカウカとしていられない筈だ。

 

ここで多くの人の誤解だが、安土城は信長公にしてみれば通過点の城であり、本当の狙いは大阪城であったのだ。

大阪は豊かで広い湾があり、日本中の商船貿易や、八幡船貿易の基地にしようとしていた。

しかし、そこに立ちはだかっていた"気狂い宗教"石山本願寺であった!!!(母の実家が浄土真宗なので私は子供の頃から慣れしたんで居ます)

ここでも誤解する人が多いのだが、戦国時代のお寺は、ほぼ要塞であった・・・

武装した僧兵が多数いて、言うことを効かない一般人は斬り殺していたし、女性のレイプも当たり前であった!!!

だから、信長公は延暦寺を焼いたのである。

坊主女子供合わせて約4000人を皆殺しにしたというが、ここで問題なのは"女子供"である!!!

何故女人禁制の比叡山に女子供が居たの?

遊女もいたろうし、村々から借金の形に浚ってきた女性も多かったというが、坊主とそられ女性との間に生まれた不義の子らであった。

信心深かった信長公、"怒り心頭に発す"であっただろう。

「天に代わってお仕置きよ」は間違いない!!!

そして、寺から不浄なものを一掃したのであった。

奈良なら東大寺、興福寺も要塞であったから、戦国時代に焼かれたし、確か平清盛公にも焼かれたいたと思った・・・

詰まり、清盛公以降約400年、寺社は反省すること無く、反社会勢力として社会に蔓延っていたと言えるのだ!!!

信長公の比叡山焼き討ちの報に、間違いなく多くの民は歓喜したにちがいない!!!

因みに高野山も焼いている。

しかし、ここが重要で、信長公は決して宗教弾圧をした訳で無く、政教分離を推進のである。

その証拠に、現代も比叡山も高野山も浄土真宗も存在しているではないか!!!

 

当時の仏教会は、反信長連合で凝り固まっていたといえるが、寺のみかじめ料や門前の通行料徴収は出来なくなったが、現代では拝観料というなで我々から金を取っている。

拝観料払えというなら、税金払え!!!と言いたい!!!

 

さて、天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長公が本能寺で最期を遂げるが、明智光秀謀反の理由は定かでない。

 

もし、信長公がこの日最期を遂げていなかったらどうなったのか?

予定通り毛利攻め、九州征伐は秒殺であったと思う。

秀吉殿下ですら秒殺であったのだから、それ以上の戦力を持っていた公なら戦わずして勝っていたかも知れない・・・

 

浅井、朝倉の髑髏に金粉を付けて杯にして皆で戦勝祝をしたという下りがあるが、平和呆けの現代劇では公の異様さを引き立たせているが、この時代、首を切ってくるのは当たり前で、その首を洗って化粧させるのは女性の仕事であった事を忘れているのか?

髑髏の杯で酒を飲むなど、諸将は造作も無かったに違いない。

 

スイス・フロイスの書簡の一節であるが、"elle era o mesmo Vo & Dairi"と書かれている。

これを日本語にすると、「余が天皇であり内裏である」という信長公の事である。

これを言って憚らなかったから、皇位簒奪するのかという馬鹿馬鹿しいちんけなことを言う学者もいる。

"信長の野望"はこんなものではない!!!

その野望とは、支那大陸統一であった!!!

明王朝を倒して、アジア平定であった。

アジア大帝国の皇帝となれば、日本は一つの州となる。

その州の長が天皇となれば、自ずと信長公は天皇を超えた存在となる!!!

 

何故、それが言えるか?

それは本能寺の変の後、羽柴秀吉の大阪城築城が早すぎたのだ。

公の重臣達は、"信長の野望"を聞き知っていても不思議ではない。

「安土の後は大阪な」である。

晩年、太閤殿下が明国征伐にでるが、その青写真も信長公から引き継いだと見て不思議はない。

 

しかし、本能寺の変で最期を遂げてので、全ての野望は灰となった。

 

私は本能寺の変は、徳川家康と明智光秀の共謀説を信じている。

これもルイス・フロイスの書簡にあるのだが、「信長公は三河の王を暗殺しようとしている」書かれている。

三河の王とは徳川家康のことである。

家督相続後の信長公は四面楚歌であった。

織田家が強大だと言っても、尾張一国で北には斉藤氏、近江の浅井氏と六角氏、越前朝倉氏、東の山脈の向こうには武田氏、今川の向こうに北条氏、伊勢には長野氏、北畠氏である。

この内、東側の敵を徳川氏を挟んでクッションとすることで、直接攻撃は無くなったのだ。

"お互いの背中を合わせて、全面の敵のみ撃つ"作戦である。

詰まり、織田家と徳川家は兄弟の関係にあるが、ここは羽柴、柴田、丹羽、細川、明智の面々とは格が違う。

同盟関係の対等な関係であったから、天下平定が見えたら、一番邪魔なのはこの"対等"な関係であるこはお分かりいただけると思う。

それと、信長公は勇猛果敢な三河武士団をそっくり欲しかったのだ。

 

現代だって、友好関係にある世界的に有名な会社と中小企業が、合併されれば嬉しいと思う人は多いと思う。

昔だって同じで"寄らば大樹の陰"である。

だから、信長公は家康公に主だった重臣も安土城へ連れてこさせたのだ。

しかし、「殺される・・・」と思いながら安土へ赴いた家康一行も只者ではない。

 

だからこそ、用意周到に信長公の裏を掻く作戦が必要であった。

 

つづく