法律というと世界最古?の"ハムラビ法典"を思い出す。
「目には目を歯には歯を」で知られているが、多くの"古代王国"では、法治国家ではなく人治国家であったといえる。
法治国家とは、人々が守られねばならない"法律"があって、誰でも身分の上下や貴賤に関係なく法によって処罰されるのだが、人治国家は、法はあるが、上役の顔色を伺ったり、忖度したりするため法以上の物が存在しているのだ。
正に、我が国日本は今や人治国家に成り下がっているのだ。
支那を初めて統一した秦の始皇帝は、それまで人治国家であった国々を一つに纏め、法を定め法治国家を掲げた。
そして度量衡を統一して文字も統一した。
まあ、当時としては革新的な手法であったが、これが当時の支那人(大陸に住んでいる他民族を指す)には理解できなかった。
例えば、身分さる人間が、酒場で酔って喧嘩して、平民を斬り殺してしまったら、"殺人罪"として罰せられてしまうのだ。
すつと、「彼は貴族なのに平民を殺して死罪はおかしい」という不満が溜まっていくのだ。
文字も秦で使っていた文字に統一して、読み方も統一したから、"一字一音"と不便になった。
ここが日本より劣化している輩と言える。
我々の漢字は、一字で多くの音が存在している。
だから、語彙が莫大に多言語と比べると多いのだ。
例えば"法"だけでも、"ほう、ハッ、ホッ、のり、のっとる"と発音する。
しかし、支那語は漢字一字は一つの音しかないから、彼らは先ずアルファベットを学び、読み方を習わねばらないという・・・
これは、始皇帝の失敗が未だに尾を引いているのである。
人治国家の話をしたが、日本人との違いは、その昔、徳川家康公がまだ"浜松殿"と呼ばれていた時代、浜松城下で火災があいつだのを城から眺めていた家康公は、本多正信を呼び「昨今城下で火災が多い。今後、火を出した家の当主は切腹とするから、布令を出せ」と命じられた。
後日、家康公は本多正信を呼び出し「例の布令は発布したか?」と尋ねられると、正信は「いいえ」と応えた。
それを訊いて激怒した家康公は「おのれ、余の命が訊けぬのか???」と怒鳴った。
すると正信は「その前に一つお伺いしたき儀がございます。殿はもし、井伊殿家から出火した場合に、井伊殿に切腹賜りますか?」
との問いに言葉がつまったらしい・・・
「井伊殿は切腹を免れ、軽輩は切腹させるとあれば、同じ殿のために命を掛けている家中の者はどう思いますか?」
これを聞き、家康公は怒りを収め、一言「良きに計らえ」
これを聞いたら、現代よりよほど"法治"を理解していたと言えないか?
古代日本で大々的に編纂された法律書は、大宝元年(701年)に作られた"大宝律令"とされているが、この時代に新律、新令と呼ばれていたと言うから、それ以前にも律令は存在したと思われる。
この律令だが、律は刑法、令は民法であるという。
実は、令は充実していたのだが、律は明治時代にドイツを参考に作成した現刑法が出来るまで、不十分と言われている。
例えば、"小伝馬町牢屋敷"というのが存在していたが、日本には懲役刑や禁固刑は存在しておらず、白洲での判決待ちの輩を入れておく留置場であったのだ。
当時も殺人、強盗、放火をやらかせば、死罪であったが、それ以外は大抵、所払いや遠島であった。
多くの人は誤解しているが、遠島とは島に行って重労働させられたと思われがちであるが、島から出なければ何やっても良かったのが遠島で、金を持っていっても良かったし、女を連れて行っても良かったのだ。
文無しで行けば、島の漁師の下働きなどして食い扶持を稼いでいたのだ。
江戸所払いも、江戸には住めないが他の町や村では普通の生活を営めた。
詰まり、「一からやり直せ」であったのだ。
ここまで書けば、何故にほんでは刑法が発達しなかったお分かりであろう。
そう日本は、世界中類を見ない崇高な国家であった。
法治国家より優れた国家とは、"責任国家"である。
"天知る 神知る 我知る 子知る"この一言である。
法治国家だから、バレなければ何をしても良いとか、法の抜け穴とかいうのであるが、責任国家ならば、己の行いは天道に恥じないか?なのだ。
だから、幕末に外国人が多く来て旅籠に泊まって、「金庫は無いのか?」の問いに「無い」と胸を張って言えたのだ。
「床の間に置いていても誰も盗まないよ」と言われ、「恐る恐るその通りにしたが財布がそのままあった!!!」という手記は多く残っている。
だから、証拠で罪を暴くなどせずに「お前がやったのか?」と言われれば、悪きことをしていたら「恐れ入りました。責任の取り方は知っております」と言って腹を切ったのだ。
これが責任国家であった。
証拠を突きつけて「お前が犯人だ」とやるのは法治国家でのことで、責任国家では「天、地それ以上に己の良心が知っている」だから、名を汚さないように自ら責任を取ったのだ。
この"名を汚す"は、日本人にとってのタブーであったのだ。
神代の時代、高天原を追放された素戔嗚尊は、奥出雲地方に降り立たれたが、身なりはボロボロで乞食と見間違えるようであったらしい。
川沿いの行かれると、村に到着されたが、娘を中心に両親が泣いていたという。
そこで、八岐大蛇の話と、娘を生贄にせねばならない話を聞かれた。
「よし、俺が何とかしてやろう」と言われ「その代わり娘を俺にくれ」と言われた。
ビックリした両親は、「娘は差し上げますが、貴方様のお名前は???」となる。
「私は素戔嗚尊である」と名乗られた。
ここが重要で、偉い人が名乗るのは、自己紹介だけでなく、「俺が責任を持つ」と同意語であるのだ。
八岐大蛇にはいくつかの仮説があり、天空の化け物説、野蛮人説、そして肥河(斐伊川)説である。
村長の説明によると、「大きさは山や谷をいくつも超え、身体には苔や木々が生えている」と言っている。
この肥河は大氾濫を起こしている河で、上流に鉄が取れる山があって、水が酸化鉄により赤くなってたらしい・・・
素戔嗚尊は"八岐大蛇"を退治(治水)して、二度と氾濫が起こらないようにした。
"八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を"と日本初の和歌を詠まれた。 その妻とは八岐大蛇の生贄になろうとした女性で、その子の子孫が今も出雲に存在している。 水戸黄門を思い出して欲しい。 最初は"越後の縮緬問屋の隠居光右衛門"と名乗っている。 町人の隠居であるから、責任はないが、ただお節介な爺さんなのだ。 行く先々で困っている人を助けているのだが、最終的に「控えい!!! こちらに御座すお方を何方と心得る。畏れ多くも先の副将軍水戸光圀公にあらせられる」となる。(実際の幕府には副将軍など存在していないし、上様を"将軍"と呼ぶ人間も存在していなかった) ここで、本名を名乗ったということは、ここでの出来事は当然「御老公様が解決して下さる」と下々の人々は考えるのだ。 詰まり、水戸光圀公は、名乗ることによって「私が責任を持って対処する」と公言したことになる。 前回、言霊に付いて書いたが、我々1人1人が、指名という言霊に支配されている。 不思議なことに、漢字の画数や、名前を変えると性格や運気まで変わるという話は枚挙に暇がない。 だから、子供に変な名前を付けてはいけないのだ!!! 生年月日と氏名で人を呪詛できるのである。 だから、昔から偉い人は本名は隠していた。 しかし、明治以降、劣化した法治国家的概念が欧州から入ってきて、日本社会は崩壊した。 無能な政治家は、責任逃れしか考えず、挙げ句の果てには「秘書がやった」である。 法治国家の最大の弱点である"法が許した"、抜け道を行った、バレなかった等々、真実は己が知ってるよな!!!なのだ。 如何に嘘をつき通しても、最後の審判で閻魔大王は全てをお見通しである。 神仏に恥じない行動を心掛けねばならないのだ。私も・・・