古くから、日本全国で、物流を支えてきたのが街道とされている。

古代(奈良時代以前)に一直線の幅が10メートル以上で路の両脇に側溝が施された舗装路があったのをご存じか?

今では跡形も無く土に埋まっているが、衛星写真だとくっきりと路の後が残っている。

 

教科書によると、江戸時代に幕府は五街道を整備したとある。

五街道とは、東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道である。

では、どれ程立派な路で有ったのであろうか?

 

市街地の道幅は現代より広かったという。

それは、火災の際に飛び火しないようにと創られていたし、市街地では物流や人の流れも多かったので出来るだけ広く作っていたらしいが、街道も町を外れるとなんと幅2メールくらいで有ったというし、狭い所だと三尺(90cm)の所も多かったらしい。

詰まり、人と人が譲り合わねば通れない幅であったと言うことだ。

大名行列がすれ違えなかったのである。

だからこそ、行列の先触れは重大な任務があった。

御三家(水戸家は参勤交代免除)の格式ならば、全ての大名家が避けて通ったであろうが、それ以外の大名家においては大問題であった。

お先手組が遠くから別の大名行列が来るのが分かったら、先ずは相手の格式を見定めねばならない。

当家より格式が上か下である。

下ならば、そのまま進むが、問題は上の場合だ。

ただただ道を譲ったとなると武士の沽券に関わるから、道を逸れて隠れるか、途中で休憩している振りをするかである。

御茶坪道中など、わざと毛氈を街道に広げ、木々の下で茶を点てて大名行列を停めてしまうことも多々あったという。

お茶坪様に逆らう勇気は誰も無かった・・・

お茶坪様とは、上様がお飲みになる一番茶を今日の宇治から江戸間で運ぶ行列である。

これには、御三家といえども道を譲らざる負えなかったというから、その格式はお分かりであろう。

そして、茶壺を運ぶ中にも茶坊主もいるので、茶坊主を敵に回す大名旗本もいなかった。

茶坊主とは、殿中での情報を一手に握っていたからである。

何故なら、上様、老中達にもお茶を入れていたから、「空いた役職には誰が良い?」等々の話を知っているし、敵に回せば有ること無いことを告げ口されかねからである。

又、親しくしていれば、己を売り込んでくれたりもするのであった・・・

現代社会でも、役職はたいしことはないが、敵に回せない人が居るはずだ・・・

 

宿場町でも本陣と脇本陣があって、これの取り合いも壮絶であったという・・・

ある時、相馬家一行が宿場町の本陣にいたら、そこに会津侯一行が入ってきた。

流石に勝負にならずに、本間の殿様は会津侯に本陣を譲り、脇本陣に移られた。

次の日、会津一行は宿場町を立ったが、相馬家は会津と同じ道中もということでもう一泊することにして今度は本陣に戻った。

すると、会津家の忘れ物の槍が一本あったのだ。

暫くすると会津藩士が槍を取りに戻ったが、相馬藩士も昨夜の恨みもあり「武士たる者が槍を忘れるとは何事だ」と言って返さなかった。

更に相馬藩士が「返して欲しくば、槍持の首を持ってこい」と言った。

会津藩士達は引き上げたが、暫くして槍持の首を持ってきて「槍を返せ」と凄んだという。

怒りの収まらない会津藩士は、相馬藩士数人を斬り殺して槍と共に戻ったという。

 

会津家は、御三家、準御三家を除けば、大名家一の名門中の名門であるので、喧嘩して叶う相手でないので、これは収まったらしい・・・

 

さて、話を戻すと、ではそのように狭い街道で物流はどうしていた?である。

関東で採れた米は江戸に運んでいた。

江戸も中期を過ぎると、日本の人口も約2500万人で、その1/10である250万人が江戸に住んでいた。

パリやロンドンでも60万人程度でっあた時代に、250万人が住んでいて糞尿すら落ちていない江戸って凄い街である。

欧州の大都市は、糞尿を窓から路に捨てていた時代である。

ペストや天然痘が流行ったはずであるが、日本では流行らなかった・・・

 

詰まり、江戸の街には250万石分の米が必要であったのだ。

250万石分と言えば、米俵500万俵であるから、重量にして約30万トンの米である。

米だけで無く、野菜類も大量に消費していたから、それも大量に江戸市中へ運搬せねばならなかった。

今の時代と違い、10トントラックがあるわけでない。

想像して欲しい。

皆さんだったらどうやって運びますか?

 

答えは単純明快、陸路で無く海路で運んでいたのだ。

関東平野は広く水田が広がり、大河何本もあったから、各村々から用水路を使い広い川まで荷物を運搬して、広い川でより大きな船に荷を移し替えて運んでいたのだ。

江戸市中も水路が張り巡らされていたから、陸路より水路を使って大量な物資を運搬していた。

 

戦前、東京は、東亰と書いたという。

京の字が、"亰"と書いたのだが、この亰の意味は"水の都"を意味した。

 

そして、日本では太古より"閘門"(こうもん)が使われていたのだ。

閘門とは、高さが違う水路の片側の門を閉めて、もう一方の高さに合わせる装置であり、現代最大の閘門と言えば、パナマ運河である。

これが、日本では昔から使われていたのだ。

江戸湾に大河が流れ込む手前に、川を横に繋いでる運河有るし、現代でも残っている。

 

時代時代で最良な交通手段を実践してきた。

明治時代になると、鉄道網が日本全土を多い、物流の主役は船から鉄道へとなり、そして、鉄道から自動車へと時代と共に変化している。

 

現代世界中は、車社会となっている。

車を利用し、便利な世の中になっているのに、日本はその車を邪魔者としていないか?

路駐を禁止したりして、返って渋滞を作り出しているのだ。

何故か、立派な歩道が作られているが、その歩道を半分の幅にすれば、自動車の駐車スペースが作れるのにと思うぐらいである。

最近はバス停部分は歩道を削っていて、車道をバスが塞がないようになってきているが、どうせなら、車の駐車スペースも作れば、車線を駐車する車が塞ぐことも無くなるだろうし、横断歩道の青信号と車の青信号を完全に分ければ、歩行者の事故も渋滞も減るはずである。

又、無法者の歩行者を轢いても車が悪いと、意味不明な法律は改正する必要がある。

法律を無視した結果事故が起きたのなら、法を破った側を罰せなければ、事故など減る訳が無い。

 

日本の法律は、明治時代の作られたものがほとんどで、既に時代に合っていないのだ。

これで、本当に国民生活を快適に送ることが出来るのか?

アメリカで暮らせば、車社会の快適さが分かるのである。

 

日本は何もかもが時代遅れの遺物である。

新型コロナウイルスで、国民生活を破壊してるにもかかわらず、オリンピックを強行する政府は、既に正気を失っている。

このままで良いのか?

真剣に考える時が来ているのではないか?