お経の中に、"失本心故"とう言葉がある。

これは、"本心が失われるが故に悩みが生じる"という意味だそうだ。

では、本心とは何ぞや?であるが、辞書で引けば"本当の心、真実の気持ち、本来有るべき正しい心"でるが、仏教の教えでは、この世に生まれてきた目的であるという。

 

生きとし生ける物全ては、それぞれの魂が何らかの目的を持って生まれてくると言う。

"一寸の虫にも五分の魂"とうが、この虫にすら魂があり、生まれてきた"ミッション" をクリアして来世へと繋げているという。

人間は、来世、人間として輪廻転生する保証は無いのだ。

虫かも知れないし、魚かも知れない。

だから、殺生をしてはならないのである。

 

生き物が生まれてきたら、その目標を探さねばならない。

目票とは、"他者のためになることをする"ということだそうだ。

昆虫の世界も、究極は「自分の命を他者の命のために差し出す」である。

これは、この世に生まれてきたら常について回ることで、あるものの命は、別のものの命の糧となっている。

草木は、草食動物の餌となり、その草食動物は、肉食動物の餌となり、その肉食動物も死せば他者の餌となる。

詰まり食物連鎖である。

 

お釈迦様は、ゴーダマ・シッタールターになられる間は、数回己の命を差し出している。

シッタールターの前世で、ある坊さんが、雪山を歩いていたら数頭の虎の子供が鳴いていた。

不思議に思い近寄ってみると、空腹の母虎が動けずにいて、乳も出ない状態であった。

その坊さんは、「私を食べよ」と母虎に自らを食べさせ、虎の命のを救ったという・・・

 

自己犠牲の精神の尊さを語っているが、一般人の我々にそんなことが出来るであろうか?

実は私自身の死に付いて最近変わってきたのだ。

昔は、「先祖代々の菩提寺にある墓に入る」であったが、今は実は死んだ後、野生動物にこの身体を食べて欲しいと考えるようになった。

実際問題は出来ないであろうが、その心音が重要なのかも知れない。

だって、散々牛、鴨、鶏、羊、魚等々の生き物を食べてきたのだから、今度は私の肉で他者の命の糧にと思うはさほど変な話では無いと思う。

 

世界の宗教では、食事の際、神に祈るが、神にこの食事を与えて貰ったことを感謝する。

しかし、日本は「頂きます」と言う。

これは、作ってくれた人への感謝でなく、本来は、これから食べる他者の命に対しての感謝の言葉である。

 

詰まり、我々は生きているのではなく、"生かされている"のである。

 

今、新型コロナウイルス騒ぎで、多くの人はストレスを感じてる。

しかし、"ストレス"という概念は、江戸時代以前は、日本存在していなかったのだ。

だから、"ストレス"とう英語が、そのまま現代の日本語になっているのだ。

 

強引にこのストレスを日本語にすると、"生体に、外傷・中毒・寒冷・伝染病・精神的緊張などの刺激が加わったとき、生体の示す反応。俗に、精神的緊張"だそうだ。

では、江戸時代以前の我々の祖先は、どう感じていたのか?

大名であっても、江戸城本丸御殿に入るときは、相当な精神的緊張が有ったと思う。

100万石であろうが、1万石であろうが、登城時には多くの家臣を従えてくるが、御本丸御殿には御身一つとなった。

町人には町人の精神的緊張、農民には農民の精神的緊張があったはずだが、彼らはそれをストレスと取っていなかった。

では、このような精神的緊張をどう克服してきたのか?

 

彼らは、"天が与えた試練"としていたというのだ。

試練ならば、自らの力で乗り越えねばならない!!!だから、何とかなるという思考だったという。

 

本心が、他者のために何かをすると言うとことだが、私は難しく考えないようにしている。

「人に親切にする」を心掛けることにしている。

新型コロナウイルスで皆がピリピリしているときだからこそ、皆がいがみ合わずに、お互い様の精神で人と接することから始めてみよう。

"情けは人の為ならず"である。

他人に対して、悪いことも良いことも自分に返ってくるのだ。

言葉もそうである。

良い言葉を人に投げかければ、必ず己に帰ってくるのだ。

その積み重ねが結果、自分を幸せにしてくれて、より素晴らしい来世が約束されるはずである。